104人の大和魂 Q.15  源頼朝「警察権獲得・守護地頭設置」 | 社長力検定「後継者育成塾」

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 頼朝は、「平治の乱」で 父義朝が平清盛に敗れ、

伊豆に流された。打ち首になるところを清盛の継

母の情けにより命拾いをする。斬首されて当たり前

であった。事実、保元の乱の際、義朝の弟たちは

年少だが処刑されている。13歳といっても初陣

であり、元服も済ましている。頼朝が生き延びたの

は、天皇(朝廷)から武家に政権を移行する、

大きな使命を果たす役割があったからだ。

伊豆での13歳からの20年間の配流生活によって、

頼朝は十分な将来構想を練ることができた。平将門の

「関東独立」失敗からヒントを得て、「朝敵」になら

いように気を配った。

 治承4年(1180)、平氏討伐の令旨を受けて、

伊豆で挙兵するも敗れる。しかし、武田信義、

千葉常胤、上総介広常らの有力武将が頼朝の下に

結集し、「鎌倉殿」として旗頭になることができた。

清和天皇から臣籍降下した源経基を父祖にもつ血統

と頼朝のカリスマ性とが相まって一大勢力となる。

 同年、平氏が頼朝追討軍を向けるが、武田信義の

夜襲により、富士川の戦いに勝利する。源氏軍の馬が

富士川の浅瀬に入った時、水鳥が一斉に飛び立ったの

を源氏の大軍と勘違いし、平氏軍は一目散に退散する

という無様な逃走劇を演じた。

 翌日、義経が頼朝の下に馳せ参じた。「兄弟である

ことを忘れずに駆けつけてくれた事、言葉に尽くせ

ないほど嬉しい」と涙を流して喜んだ。頼朝は、

少々オーバーな態度を示すことが効果的であること

を知っていた。配流生活の中で身に付けたものだろう。

頼朝は、軍事の天才である義経を大将軍にして、

5年後「壇ノ浦の戦い」で平氏宗家を滅亡させた。

義経は、舟漕ぎに矢を放ち、命を奪っている。

さらにあろうことか、舟上の幼君安徳天皇に向けて

矢を射かけるなど、前代未聞の攻撃を行った。

禽獣(きんじゅう)に等しいと人望を失い、

やがて身を滅ぼしていく。

 後白河法皇は、平氏打倒を頼朝に命じた。法皇は、

次に頼朝勢力拡大を阻止しようと頼朝と義経との仲

違いを図る。義経に官位「検非違使(警視庁長官相当)」

を与え、昇殿を許したのである。頼朝は、「二君に

仕える」義経を許さず、弁明に訪れた義経を鎌倉

に入れず、腰越に留め置いた。ここで身の潔白を

訴えた書状が、「腰越状」として遺されている。

頼朝の怒りに触れたのは、義経が官職を辞退しな

かったからだ。頼朝に攻める口実を作らせてしま

ったのは、義経はやはり天下を取る器ではなかった

と言える。

 頼朝が軍勢を率いて上洛し、逆に法皇を威嚇する。

すると翻って義経追討の宣旨を出す。法皇は、頼朝

の軍門に下った。胆力の違いと言うべきだろう。

 頼朝は、義経の身柄を早期に拘束するという名目

で「惣追捕使」の設置を法皇に願い出た。義経討伐後は、

警察権を担う役職になる。朝廷としては、手を汚す仕事

なので、法皇は二つ返事で承諾した。頼朝は合わせて

土地所有を認めて欲しいと願い出た。従来、武士には

土地の所有権はなく、荒くれの「用心棒」に過ぎなかった。

法皇は、頼朝を「日本国惣地頭」に任じ、地頭の任命権を

与えた。

 これで、藤原氏の力を削ぎ、朝廷が再び税収で潤うこと

になる。地頭は、藤原氏の私有地「荘園」を奪い、土地の

所有者になっていく。頼朝は、警察権と土地の所有権を

同時に手に入れたのである。

 法皇は、征夷大将軍の要請だけは頑なに拒んだ。征夷大

将軍には、「徴兵」、「徴税」の権限があった。兵を集め

ることや徴税代行を認めてしまえば、政は武家のものに

なってしまう。法皇が建久3年(1192)に亡くなると、

ついに頼朝は朝廷から征夷大将軍の役職をもぎ取った。

「大政」は委任されたのではなく、武家が朝廷から奪い

取った権限だった。その後、後醍醐帝のわずかな時期を

除き、武家社会が570年余り続くことになる。

 義経は、少年期を過ごした奥州平泉に逃れた。京では、

応援するものは皆無、流れは変わっていた。藤原秀衡は

匿ったが、間もなく死去。泰衡に「義経を大将軍にして、

奥州を護れ」と遺言する。ところが、義経を匿えば頼朝

に攻められると考えた泰衡は、義経を急襲、妻子とも

自害に追い込む。しかし頼朝は、泰衡に対し義経を匿っ

たことを罪として、討ち取った。ついに奥州の藤原氏を

滅亡させ、目の上のたん瘤を取り除いた。

 健久3年(1192)、頼朝は名目に過ぎなかった

「征夷大将軍」を実質武家の棟梁という位置づけにした。

全国に「守護」「地頭」を置き、支配力を拡大していった。

朝廷からすれば、軍事、警察、徴税等の汚れ仕事を幕府と

いう民間機関に委託する形式を取ったことになる。

頼朝は朝廷の枠から外れ、日本初の武家政権を鎌倉に

樹立。三方山に囲まれ海沿いという立地に御所や迎賓

館となる永福寺などを建築し、京都に劣らぬ頼朝ワールド

を築く。後醍醐天皇の時期を除き、幕末までの約700年間

民間人(幕府)が政を司る先頭打者になる。

天皇家は、祭祀に専念し、「君臨すれども統治せず」という

象徴的地位に留まった。