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第1章 古代・平安  日本国創業

No.1 卑弥呼

邪馬台国・所在地

 日本民族最初の統一政権である「邪馬台国」

は、政教分離体制を敷いた。すなわち姉の卑

弥呼が宗教=祭祀を司り、弟が政治=政権を

担当した。権力が一人に集中しない二重構造に

なっていた。

又、女性が祭祀、男性が政治を担うことで特性が

発揮しやすいという利点もあったように思われる。

これが日本の政(まつりごと)の基本スタイルと

なり、今日まで続いている。天皇が祭祀を司り、

内閣が政務を執ることにより、独裁政治ができ

ないシステムになっている。古代に何人かの天皇

が国を動かした例があるが、日本の天皇家は、

君臨すれども統治しない=象徴の立場を貫いている。

古代の摂関家藤原氏、鎌倉以降は武家、明治以降は

内閣に委任統治させている。世界史的にみても国王

(天皇)が独裁せずに、合議=話し合いによって、

運営された国は日本だけである。

卑弥呼は、 狗奴国と戦闘状態に陥ると魏に援軍を

要請していることから、漢文=漢語が十分理解でき

る外交組織を設置していたことが分かる。優秀な人

材を抜擢し、今日の外務省に相当する組織を構築し、

国家が運営されていたと思われる。魏からの「親魏

倭王」称号は、いくつかの国を統合していると認識

されていたことを表わしている。

 卑弥呼は、あくまでも中国人が日本人の音を漢字に

当てはめただけで、日本では「日の子」、すなわち

太陽の子として崇められていたと思われる。邪馬台

国の(邪馬=やま)とは、タミール語で太陽を表す。

従って、邪馬台国とは、太陽の国と名乗ったことになる。

現在、日(太陽)本と自称するのと同じ意味合いである。

日本は、開闢以来「太陽の国」と認識していたと考えら

れる。

「倭」は、中国が勝手に付けた民族名である。

体が小さいという意味なので、日本人が自虐的なネー

ミングをするとは思えない。

卑弥呼と関連性が指摘されている、「三角縁神獣鏡」

は、「魔鏡」の特性があり、鏡面の凹凸が中国思想の

「神仙」や「霊像」を投影する仕組みになっている。

魏から送られた鏡は百枚と「魏志倭人伝」に記載され

ている。ところが、日本国内に289面発見されてい

るので、「三角縁神獣鏡」は、

日本独自の鏡である。卑弥呼は、この鏡を同じ鋳型で

製造し、卑弥呼の同盟国になった証しとして、配布した

ものと考えられる。

日本書紀には、「神功皇后」を卑弥呼と推定させる

記述がある。

神功紀39条の註(説明)として、明帝景初3年

(239)6月、「倭女王、大夫難斗米(なしめ)

等を遣わし」と魏と

の交流を記している。魏志倭人伝に合わせた事績だが、

「神功皇后」は14代仲哀天皇の后なので、同書の

「無夫婿」、すなわち独身ではない。従って、卑弥呼と

異なる。日本書紀編纂の際に邪馬台国卑弥呼は、政権に

とって不都合な存在だったことが分かる。

同書は、1里を約100メートルとして距離を表してい

る。

帯方郡(現ソウル)から女王国までの距離を1万2千里

(釜山までが7千里+釜山から5千里=120km)とし、

都から東へ千余里(大分から

四国まで約百キロ)海を渡ると倭人が住んでいると

記述している。

地理条件に該当するのは、九州の東海岸だけである。

又、傍証として、

絹や鉄の武器の出土から考えても北九州(福岡、佐賀、

長崎、大分)地域と奈良県では天と地ほどの差がある。

絹製品は文化の象徴であり、魏へ献上されている。

福岡に集中しており、奈良県の出土はほとんど

ない。当時の最先端技術によって製作された、鉄の

武器にしても大きな差がある。福岡で発見された

「鉄の鏃(やじり)」が398個に対し、

奈良では、わずか4個、鉄剣46本に対し、奈良

からは1本しか発見

されていない。刀子(30センチ以上の刀)210

個に対し、奈良はゼロである。武器が戦いの結果を

左右するのは、古今東西世の習いで

ある。奈良の邪馬台国では、武器が無く、領民を

守ることができない。

庶民は、魚を取って生活していることと記述され

ているので、畿内(奈良)説は成立しない。畿内の

東にある琵琶湖は湖だということは、誰でも容易
に分かる。世界4大文明に象徴されるように文明は、

海沿いに発生する。

文化イノベーションには海は不可欠だ。内陸は当然

文化、文明が遅れる。

筆者は、「邪馬台国」は現在の大分県大分市上野台

にあったと考えている。

現在、大分県立美術館が建っている場所だ。当時、

戦闘状態にあった狗奴国は南九州(熊本、宮崎、

鹿児島)を支配していた。狗奴国王兄弟は、

邪馬台国に勝利した後、「東征」し、奈良橿原に都

を築き、弟が初代神武天皇になる。邪馬台国の後継

なので、そのまま「ヤマト=太陽」の国と名乗った。

ヤマト王権が奈良盆地を中心に大王や有力豪族の墓

として前方後円墳を築造したのが古墳時代(3世紀~

7世紀)の始まりとさ

れる。大王を頂点とする身分階級が現れると前方後

円墳の周囲には「陪塚(ばいちょう)」と呼ばれる

中小約16万基の古墳が築かれた。

「日本書紀」が邪馬台国に一切触れていない理由は、

2世紀から3世紀の卑弥呼の時代だけ畿内から都が九

州に移転したことになり、紀元前660年に神武天皇が

橿原で即位したという記述が矛盾するからだ。

「邪馬台国不在論」を唱える研究者は、伝説(墓、

神社)の類が無いことなどを理由にしている。又、

「祟り」の記録がないことを「不在」理由に挙げて

いる。菅原道真、崇徳上皇のように死後恨み

を晴らすために「祟って」雷を落とす、病によって

命を奪うなどの仕返しをするのが常套手段である。

しかし、卑弥呼は決して復讐をしていない。筆者は、

卑弥呼は「以て死す」とあるので、納得して

死んでいったと考えられる。従って、怨念を晴ら

すような「祟り」は発生していない。

「魏志倭人伝」は、中国の正史として認められて

おり、単なる伝聞ではない。正始元年(240)、

「倭国に詔書、印綬を奉じた」との記録があることから、

捏造書とは考えづらい。

邪馬台国は、南九州の神武天皇に滅ぼされた国だろう。

原因、結果を無視する、シャーマン的宗旨は、因果の

道理に反する。卑弥呼は最期まで「誠」を尽くせず、

邪馬台国は滅んだ.