104人の大和魂 No.2 聖徳太子 | 社長力検定「後継者育成塾」

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①「国家理念・十七条の憲法」
604年、聖徳太子(厩戸皇子)は「十七条の憲法」

を制定し、「日出処=日本」の魂と言うべき道徳

(宗教)的規範を国民に提示した。邪馬台国と同じく、

推古女帝が祭祀、聖徳太子が男帝として政(まつ

りごと)を司った。
聖徳太子(厩戸皇子)は、物部氏と4度戦い、日本国

に仏法を確立した功績により、今でも日本国民に崇め

られている。隋側の使者と面会しているので、政の

トップであったことは間違いない。聖徳太子の母君と

推古女帝は姉妹のため、太子は女帝の甥に当たる。

同じく「蘇我腹」である。
太子の功績は、何と言っても中国との対等な関係を

築いたことだ。卑弥呼、倭の五王等いずれも中国王朝

に朝貢(ちょうこう)し、「倭国」として臣下の扱いを

受けていた。しかし、太子は607年に、「日出る処の天子」

として「日没する処の天子」である隋の煬帝に堂々と国書を

送っている。仏教に伝わる秘伝によれば、過去世において

中国に遺した法華経の虎の巻を小野妹子に取りに行かせた

とされている。煬帝は、蛮国が「天子」と言う言葉を用い

たことに一旦は激怒する。しかし、太子の正体が「南岳大師」

の後身と分かると敬意を示し、日本へ国使を差し向け、

太子を表敬訪問させた。「東征傳」に南岳大師

(515~577)が倭国王として再誕するとの伝承が

記載されている。煬帝は、素直に信じていたと思われる。
隋書倭国伝によれば、太子を国王として次のように記した。

倭国王を姓はアメ(天)、名を(タシリヒコ)、号を(オオキミ)、 

<天から降りてきた国王>と紹介している。国王には、

妻がいると書かれているので、推古女帝ではない。

卑弥呼の時代と同じく、女帝が祭祀、男帝が政

(まつりごと)を担っていた。当時は、「天皇」

という呼び方がなかったため、「日本書紀」では

「摂政」と表記されているが、「聖徳太子」のこと

である。
飛鳥時代以降、日本は独立国としての道を歩み、

中国へ朝貢する臣下になっていない。聖徳太子は、

独立国として日本人に自信を齎(もたら)せた

功徳によって、千四百年余り経った現代でも尊崇さ

れている。
十七条の憲法の第1条に和を以ってと貴(とおとし)

と為す」とした。上和(やはら)ぎ下睦(むつ)びて、

事を論(あげつら)ふに諧(ととの)へば、事理自ら

通ず。何事か成らざらむ」と上下の身分に拘らず、

十分な話し合いによって、物事を決めなさい。

そうすれば、何事もうまくいく。太子が「和」の

精神とは、単に従うことではなく、論議を尽くすこ

とだと「いの一番」に断じていることは非常に興味

深い。
聖徳太子により、すべて話し合いによって決める

という国是が定められたと言える。従って、独裁者

を生まない。天皇は、公卿ら(内閣)、将軍は幕閣

らの合意によって決められた内容を承認する原型が

できあがった。
歴史学者津田左右吉は、「古代史の研究」に「十七条

の憲法」及び「冠位の制定」を大化の改新(645年)

以降作成されたという見解を述べている。理由は、

「続日本史」に見られる詔勅や「日本書紀」の文章と

酷似しているからだと指摘した。聖徳太子の時代には、

十二条の「国司」という役職はなかった。それゆえ、

当該憲法は改新の際に太子の名声にあやかって、

創作されたと主張。さらに神武天皇から14代目まで

の天皇を架空の存在と断定したことなどで起訴された。

そして、昭和17年(1942)5月、禁錮3年執行猶予

2年の判決が下された。控訴し、2年後「時効」によって

免訴になっている。
津田は、「記紀」の資料批判を公然と行ったが、尊王の思い

が強く、戦後も一貫して天皇制を支持した。東大の聴講生に

「唯物論者か?」と問われた際に「共産主義は学問ではない」

と真っ向否定したというエピソードが残っている。

➁「能力主義・冠位十二階」
聖徳太子は、603年に「冠位十二階」を制定し、

能力主義を導入。従来の「氏姓制度」では、職業は世襲

制だったが、これを改め個人の実力に応じて冠位を授け

た。豪族間の争いが激しく、氏族の規模によって貧富の

差があった。皇室制を揺るがすような情勢を打破し、

皇中心主義を確立させるために土地人民を皇室に直属さ

せる必要があった。「徳、仁、礼、信、義、智」をそれぞれ

2つに分け、12段階に職位を定めた。氏族単位での職責

を改めたので、例え氏が劣っていても能力次第で上位の役

職に就くことができた。国博士高向玄理、仏師鞍作止利などは、

本制度のお陰で身分差を気にせずに公務に没頭できたのである。

大いにやる気を刺激したことは言うまでもない。天皇家以外は、

皆同じ身分だという「国是」がスタートしたのである。
「人名」にこだわった、聖徳太子不在説もあるが、厩戸皇子として、

日本国家の礎を築いた人物が存在したことは事実である。聖徳太子

の名は、漢詩集「懐風藻」が初見とされ、日本書紀には厩戸皇子、

豊耳聡聖徳、法主王と記されている。「生まれてすぐに言葉を発した」、

「10人の話を同時に聞き分けた」等の超人伝説は、日本書紀が実際

よりもオーバーに表現したと考えられる。太子は、「和」の精神に

基づき、実力者馬子、推古女帝と協調し、国家の運営を図った。

「誠」を尽くした生涯と言える。