1877年(明治10年)9月24日・西南戦争終結 | 社長力検定「後継者育成塾」

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西南戦争
Seinansenso snou.jpg
鹿児島暴徒出陣図 月岡芳年
戦争士族反乱
年月日1877年明治10年)
場所熊本県宮崎県大分県鹿児島県
結果日本の旗 日本の勝利
交戦勢力
日本の旗 日本Japanese Crest maru ni jyuji.svg薩摩藩士族
指導者・指揮官
Flag of the Japanese Emperor.svg 有栖川宮熾仁親王Japanese Crest maru ni jyuji.svg 西郷隆盛  
戦力
約70,000約30,000
損害
6,400 戦死6,800 戦死
士族反乱

西南戦争(せいなんせんそう)、または西南の役

(せいなんのえき)は、1877年明治10年)、現在

熊本県宮崎県大分県鹿児島県において西郷

隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱

である。明治初期に起こった一連の士族反乱の中

でも最大規模のもので、2016年現在日本国内で

最後の内戦である。鹿児島では丁丑戦として語ら

れている。

 

赤龍丸と弾薬掠奪事件

 

 
現存するボクサーパトロン10発入りパッケージ(左)と同弾薬の断面

 

西郷軍の結成と出発

 
1877年、フランスのニュース紙「Le Monde illustré」より、西郷隆盛とその幹部たち

 

  •  

征討軍派遣

 
西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍(1877年)

 

 
薩軍に投降を促す官軍のビラ「官軍に降参する者はころさず(殺さず)」

 

田原坂・吉次峠の戦い

 
田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍(「鹿児島新報田原坂激戦之図」小林永濯画、明治10年3月)。
 
田原坂の戦い(「鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画、明治10年4月)

 

 

 
西郷札(表)

 

鹿児島方面の戦い

 
鹿児島で激突する官軍と西郷軍(「薩肥海鹿児島逆徒征討図」早川松山画、明治10年3月)

 

城山・重富・紫原の戦い

 
城山の戦い
 
城山を取り囲む帝国陸軍の要塞

 
和田越決戦地の碑

 

 

城山籠城戦

城山籠城戦
Saigo Cave at Shiroyama.JPG
西郷隆盛らが籠城した西郷洞窟(地図
戦争:西南戦争
年月日1877年9月24日
場所日本の旗 日本 鹿児島県鹿児島府下
結果日本の勝利(西南戦争終結)
交戦勢力
日本の旗 日本
日本の旗 東京警視本署
薩摩藩士族
指導者・指揮官
山縣有朋西郷隆盛
桐野利秋など
戦力
約70,000人約372人
損害
西郷・桐野を含め全滅
 
西郷軍最後の進軍路。
 
 
南洲翁終焉之地の碑(地図

 

9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の

総攻撃が始まった。このとき西郷・桐野・桂久武・村田新八・

池上・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は西郷が籠もって

いた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃した。進撃に際して

国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃した。途中、桂久武

が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能

邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は、負傷して駕籠

乗っていた別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここで

よかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、

遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと

別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶと西郷を

介錯した。その後、別府晋介はその場で切腹した。

 

西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に

及んだ。この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社

日本赤十字社の前身)が活躍した。