1597年9月23日・南原城の戦い | 社長力検定「後継者育成塾」

社長力検定「後継者育成塾」

今、詳細がはっきりしている28万社中約18万社が後継者不在

と回答(帝国データバンク)しています。

後継者が欲しい企業は、先ず当ブログに登録してください。





大いに読書に励み、郷土を愛し、

世界へ羽ばたこう!

南原城の戦い

 
 
南原城の戦い
戦争:慶長の役
年月日:(1597年9月23日~26日
場所朝鮮国全羅道南原
結果:日本軍の勝利
交戦勢力

朝鮮

日本豊臣政権Taiko Giri.svg
指導者・指揮官
楊元宇喜多秀家Jimonji.svg
戦力
明軍3,000

朝鮮軍1,000

日本軍56,800
損害
不詳不詳
文禄・慶長の役

南原城の戦い(なんげんじょうのたたかい)とは、

慶長の役で日本軍が南原城を攻略した戦い。

 

文禄の役後、日本との間で続けられた和平交渉が

決裂すると豊臣秀吉は再征を命じた。

日本水軍が漆川梁海戦で朝鮮水軍に壊滅的打撃を

与えると、日本軍は右軍、左軍、水軍に分かれ水陸

から全羅道を目指して進撃を開始する。

日本軍が水陸から襲来すると

の報が急を告げると、城中

の者はびくびくとして騒ぎ立て、人民は逃散した。総兵・

楊元の率いる遼東の騎兵3000が城内にいるばかりであった。

南原城には明の総兵・楊元の他、中軍・李新芳らが、

約3000人の明兵を擁して守りを固め、これに朝鮮軍の全羅

兵使・李福男、南原府使・任鉉、助防将・金敬老、光陽県監・

李春元、唐将接伴使・鄭期遠らが約1000人の朝鮮兵を

率いて加わった。

8月12日、日本軍は南原に到着すると、ここを包囲下に置き、

戦闘が開始される。

 

南原城包囲軍配置

戦闘は先ず射撃戦で始まり、日本軍は散兵を城に接近させ

火縄銃を撃ちかける。これに朝鮮兵は勝字銃筒という原始

的な火器で応戦するが命中しなかった。一方、日本軍の放

った火縄銃の弾丸はしばしば城を守る朝鮮兵に命中した。

この時、明の遊撃・陳愚衷が3000の兵を率いて全州におり、

南原守備軍は毎日のように来援を要請したが、陳愚衷は

遂に救援しなかった。

 

日本軍が全州に向かって進撃する

と陳愚衷指揮下の明・朝鮮軍は恐

れをなして逃亡。明・朝鮮軍の当方

面における防衛体制は瓦解した。

これにより、日本軍は全州を占領する。

直後、明は楊元と陳愚衷を処刑した。