1884年(明治17年)9月22日・加波山事件 | 社長力検定「後継者育成塾」

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加波山事件志士の墓
(茨城県筑西市下館地区)

加波山事件(かばさんじけん)とは、1884年明治17年)9月

に発生した栃木県令三島通庸等の暗殺未遂事件。

 

  • 自由民権運動の中で、急進的な考えを抱いた若き民権
  • 家たちが引き起こした。
  • 福島事件に関わった河野広体河野広中弟)等のグ
  • ループが中心となり、茨城県・下館富松正安や栃木
  • 県内の民権家が加わっている。当初、栃木県庁落成時
  • に民権運動を厳しく弾圧した三島通庸県令や集まった
  • 大臣達を爆殺する計画であった。しかし、鯉沼九八郎
  • 爆弾を製造中に誤爆させた。計画が明らかになると茨城
  • 加波山山頂付近に立てこもり、「圧制政府転覆」「自由
  • の魁」等の旗を掲げ、決起を呼びかけるビラを配布した。
  • 又警察署や豪商の襲撃も行なっている。茨城県古河市
  • 中田にあった文武館を中心にして小山、結城にて策謀を
  • 練っていた。

後日の再集結を約して解散するが

次々に逮捕された。その後、自由党

幹部である内藤魯一田中正造

小久保喜七をはじめとして300名に

及ぶとまでいわれる民権家が逮捕

された。然し、政治犯とはならず、

資金集めの際の強盗等の罪によっ

て裁かれた為、起訴されたのは加

波山に立てこもった16人に加え、

内藤、鯉沼ら若干名にとどまった。

7名に死刑判決が下され(うち1人は

刑執行前に獄死)、3名が無期懲役

となった。但し服役者も獄死者を

除き、特赦によって1894年までに

は出獄している。