1898年9月21日・戊戌の政変 | 社長力検定「後継者育成塾」

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戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)

とは、末において、光緒24年

1898年)、西太后栄禄袁世

凱らと共に、武力をもって戊戌の

変法を粉砕した保守派(反変法)

クーデターである。

 

清朝は、この後坂道を転げ落ちるように滅亡の一途をたどった。

 

<孤立無援の変法派>

 

戊戌の変法は,光緒24年4月23日(新暦6月11日)より光緒帝

の支持の下、康有為梁啓超らによって推し進められた政治

改革である.

それがあまりに急激で全般的な改革であったために、改革に

対し周囲から危惧・懸念の声が相次いだ。もともと改革は、

それを実行するだけの財政的基盤に欠けた机上の空論的な

性格を有し、それだけで批判を招きやすいものであった.

すなわち批判の急先鋒たる西太后栄禄らの眼には、康有

為らが導入を目指す憲法や議会制度は、自らの政治的フリー

ハンドに著しく掣肘を加えるものとして映じた.又、明治日本

倣った官庁の統廃合は官僚の頭数の整理でもあるため、

官僚層の猛烈な反発を招くものであった。

 

変法派はついに軍事力によって

西太后や満州貴族を捕らえ、

実権を握った上で改革を断行

する案を作成した。しかし変法派

は独自の兵力を持っていなかった。

新建陸軍の指揮官であり、変法に

も早くから理解を示していた袁世

凱に軍事の役割を担ってもらうこ

とにした。8月3日(9月18日譚嗣

が袁の私邸で説得を行い、

袁も了承したかに見えた。ところが

8月5日(9月20日)、袁は西太后の

側近栄禄にこの情報をリークした。

 

西太后のリアクションは早く、早くも翌日

から変法派官僚の大粛清が行われた。康有為、梁啓超らは、

いち早く逃亡して日本に亡命した。しかし光緒帝は幽閉され、

譚嗣同ら6人の官僚は8月13日(9月28日)、北京城内の菜市

口で処刑された。譚嗣同は逃亡の勧めを断り、「改革の礎に

なる」と自ら捕らわれ処刑されたという。

 

一般的には政変の直接の原因は袁世凱の密告とされるが、

これに対しては疑義を挟む立場もある。そもそもこの内情を

暴露したのが、梁啓超の『戊戌政変記』であるが、これは日

本亡命後に明治政府を動かして光緒帝を救出し、あわよくば

変法の再開を目論んだ著作であった。したがって政変の発生

や同士の処刑といった目に見える事実の間隙に康有為たち

に都合のいいフィクションを挟み込んだ可能性を拭いきれな

いからだ。