1828年)9月18日・シーボルト事件 | 社長力検定「後継者育成塾」

社長力検定「後継者育成塾」

今、詳細がはっきりしている28万社中約18万社が後継者不在

と回答(帝国データバンク)しています。

後継者が欲しい企業は、先ず当ブログに登録してください。





大いに読書に励み、郷土を愛し、

世界へ羽ばたこう!

 

シーボルト事件(シーボルトじけん)は、江戸時代後期

1828年に起きた事件。1825年には異国船打払令が出

されており、およそ外交は緊張状態にあった。

 

文政11年(1828年)9月、オランダ商館付の医師である

シーボルトは帰国する直前、持ち出すことが禁じられて

いた日本地図などを所持していることが発覚した。

それらを贈った幕府天文方書物奉行高橋景保ほか

十数名が処分され、景保は獄死した(その後死罪判決

を受け、景保の子供らも遠島となった)。シーボルトは

文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の

処分を受けた。

 

シーボルトは、江戸で幕府天文方高橋景保のもとに保管

されていた伊能図を見せられた。地図は、禁制品扱いで

あったが高橋は学者らしい単純さでシーボルトのために

写しを同意した。

シーボルトらが1826年7月に江戸参府から出島に帰還し、

この旅行で1000点以上の日本名・漢字名植物標本を蒐

集できた。日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵

蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛

に丁重な手紙と布地を送ったが、間宮は外国人との私的

な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出した。

高橋景保と間宮林蔵のあいだには確執があったといわれる。

間宮がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、

多くの日本人と高橋景保は捕らえられ取調べを受けることに

なった。日本地図の返還を拒否したためシーボルト自身も

「容疑者」になってしまった。

 

シーボルトは、高野長英から、医師以外の肩書は何かと問

われて、「コンテンス・ポンテー・ヲルテ」とラテン語で答えた

渡辺崋山が書いている。これは「コレスポンデントヴェル

デ」であり、内情探索官と訳すべきものである。

なお、シーボルトは安政5年(1858年日蘭修好通商条約

の締結により追放が解除となり、翌安政6年(1859年)に長男

アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となって

いる。