占守島の戦い(1945年8月17日-8月21日) | 社長力検定「後継者育成塾」

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占守島の戦い


占守島の戦い
Demis-Shumshu (Shumushu).png
戦争太平洋戦争
年月日:1945年8月17日-8月21日
場所占守島千島列島 東端)
結果:ソ連の勝利、8月21日日本軍の降伏による終戦
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦
指導者・指揮官
堤不夾貴 中将 アレクセイ・グネチコ 少将
戦力
8,500名 8,821名
損害
死者256名、負傷者762名 死者516名、負傷もしくは行方不明1051名

占守島の戦い(しゅむしゅとうのたたかい)は、

太平洋戦争 終戦後(戦闘停止期間中)1945年

和20年8月18日~21日)に 島列島東端占守島

ソ連労農赤軍大日本帝国 陸軍との間の戦闘 である。

ポツダム宣言 受諾により太平洋戦争が停戦 した後の

8月18日未明、日ソ中立条約 を一方的に破棄(8月9日)

したソ連軍が占守島に奇襲攻撃、ポツダム宣言受諾に

従い武装解除 中であった日本軍守備隊と戦闘となった。

戦闘は日本軍優勢に推移するものの軍命により21日に

日本軍が降伏 し停戦が成立、23日に日本軍は武装解除

された。捕虜 となった日本兵はその後大勢が法的根拠無

拉致 され、シベリアへ抑留 された。


背景

占守島の位置

千島列島のほぼ最北端にあり、北東は千島海峡 (ロシア名

「第1クリル海峡」)を挟んでカムチャツカ半島 ロパトカ岬

面する。南には幌筵海峡(ロシア名「第2クリル海峡」)を挟ん

幌筵島 がある。面積は230平方キロメートル で、海抜 200

メートル くらいの緩やかな丘陵 が続き、 地と草原 である。

オホーツク海太平洋 に囲まれ、 季でも摂氏 15度くらい

で濃 が覆い、 季はマイナス15度の極寒の上に吹雪 となる。