日朝修好条規・1876年2月27日 | 社長力検定「後継者育成塾」

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朝修好条規

日朝修好条規
各種表記
ハングル 조일수호 조약
漢字 朝日修好條約
発音 チョイルスホ チョヤク
日本語 読み: にっちょうしゅうこうじょうき
英語 表記: Treaty of Ganghwa
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条約締結の舞台となった江華島。赤い部分。曲折を経て
釜山、元山、仁川が開港地として選ばれた。

日朝修好条規(にっちょうしゅうこうじょうき)は、1876年

明治 9年、時憲暦 光緒 2年=高宗 13年)に日本李氏朝鮮

との間で締結された。

条約 とそれに付随した諸協定を含めて指す。条約正文 では「修

好条規」とのみ記されているが通例として朝鮮國との修好条規、

日朝修好条規、日鮮修好条規などと呼称する。江華島 で調印

された。従い、江華(島)条約강화도조약)とも、丙子の年に

結ばれたために丙子修交条約ともいう。当時東アジア で結ば

れた多くの条約と同様、不平等条 約であった。


朝鮮が清朝冊封 から独立した国家主権を持つ独立国である

ことを明記した。片務的領事裁判権 の設定や関税自主権 の喪

失といった不平等条約的条項を内容とすることなどが、その特

徴である。

それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が、開国 する

契機となった条約である。近代国際法に詳しい人材がいなかっ

たため、朝鮮側に不利なものとなっている。その後朝鮮は似たよ

うな内容の条約を他の西洋諸国(アメリカイギリスドイツ帝政

ロシア、フランス )とも同様の条約を締結することとなった。そのた

め好む好まざるとに関わらず近代資本 主義が席巻する世界に

巻き込まれていくことになる。

背景

日本は、西欧列強が迫っていた東アジア諸国の中で、いちはやく

開国。明治維新 により近代国家となった。西欧諸国のみならず、

自国周辺のアジア諸国とも近代的な国際関係を樹立しようとした。

朝鮮にも1868年 12月に明治政府が樹立するとすぐに書契、すなわち

国書を対馬藩宗氏 を介し送った。江戸時代 を通じて、朝鮮との関

係は宗氏を通じ行われてきたためである。しかし、国書の中に「皇」や

「奉勅」といった言葉が使用されていたために、朝鮮側は受け取りを

拒否した。

この問題は、日朝双方の国交に対する思惑がすれ違ったことが原因

である。日本側は従来の冊封体制的な交隣関係から、条約に基礎づ

けられた関係へと日朝関係を変化させることを企図したのである。

一方朝鮮側はこれまでどおり冊封関係にとどまり、その中で日本との

関係を位置づけようとしていた。朝鮮は、前近代における冊封体制下

において、「皇上」や「奉勅」という言葉は中国の王朝にのみ許される

と考えていた。日本がそれを使用するということは、冊封体制の頂点

に立ち朝鮮よりも日本の国際地位を上とすることを画策したと朝鮮は

捉えたのである。


9月20日 、首都漢城 に近い江華島付近で、雲揚所属の端艇が朝鮮砲

台から砲撃を受ける事件が発生した。雲揚は反撃し、

永宗島の要塞を一時占領、砲台を武装解除し、武器、旗章、楽器等

を戦利品として鹵獲した。この事件における被害は、朝鮮側の死者

35名、日本側の死者1名負傷者1名(のち死亡)であった。事件は朝

鮮側が日本海軍所属の軍艦と知らずに砲撃してしまった偶発的なも

のとされた。、この江華島事件の事後交渉を通じて、日朝間の国交

交渉が大きく進展した。