裁くあなたが裁かれます | 進藤龍也牧師のヤクザな日記

進藤龍也牧師のヤクザな日記

私がヤクザから牧師になった人生が真実の様に聖書の話はありえない!信じられない!ような真実の話です
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裁くあなたが裁かれます


いつの時代にも、同じ信仰を持っている人たちの間での対立があった。

現代においても相変わらずだ。


「天に国籍がある」これは天国には宗派がないと言うことだ。キリストを信じる者たちだけがいるところである。


会ったこともない同じ牧師から名指しで悪口を書かれる!批判や非難をされる。人格的な交わりがないのに確認もしないで批判を書く。


非難や批判と言うのは、根底に自分が正しいと言う思いから出ている。相手が間違っていると言う前提から、相手をおとしめ自分を立てて自分を誇らせるものである。


今の時代YouTubeで牧師が名指しで批判をしている。


キリストの遺言であるヨハネ17章にある「一つになりなさい」と言う命令はどこにあるのか?


他者を認めないと言う事は、不寛容であると同時に、自信のなさの現れでもある。


私自身は先生と呼ばれる資格はないと思っている。全国、海外とたくさんのところに講演に行く。そのたびに大事な話をが優先であること。毎回毎回、断りを入れるのは面倒であると。同時に尊敬と敬いの文化と言う日本の美徳文化であるとも思っている。それは日本人の民度が高い証拠だと私は思っている。私はその文化の中で育ってきて、やっぱり自分の師匠や尊敬する牧師に対して、どうしても先生と言ってしまうのだ。


先生と呼ばないでと言われたこともある。しかしその先生を私はほんとに尊敬しているので、先生と呼ばせてくださいと断りを入れたこともある。また、尊敬する牧師はこう言った「ちずおさんと呼んでください」と。知恵のある言葉だ。言いやすくなる。礼儀上、牧師に対して先生と呼ぶ日本文化であるからだ。それを直したいという牧師の方々、一言言いたい、愛を持って記事を書くべきだ。


【デボーションで導かれてます】


このプロテスタント業界の牧師の先生問題!、、、これを牧師が、御言葉を振りさして先生と呼ぶ聖徒や牧師たちを汚い言葉で、なじっている記事を見ては悲しくなる。


先生と呼びたい人の気持ちというものがわかっていない。何度も言うが、私は先生と呼ばれなくても良い。


聖書の中で1番尊く、美しく、大切にしなければならないものは、キリストご自身が新しい戒めだと私たちにくださった「互いに愛し合いなさい」と言うものだ。


[ローマ人への手紙 2:1,2,3,4,5,6]

ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。

そのようなことを行う者たちの上に、真理に基づいて神のさばきが下ることを、私たちは知っています。

そのようなことを行う者たちをさばきながら、同じことを行っている者よ、あなたは神のさばきを免れるとでも思っているのですか。

それとも、神のいつくしみ深さがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かないつくしみと忍耐と寛容を軽んじているのですか。

あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。

神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。


祈り

どうぞ、クリスチャンがクリスチャンを裁き責め合うことが終わりますように。ひとつになりなさいと言う命令は、世の人々がキリストを信じるためだと教えられております。ネットを正しく使うことができるように。マタイに書かれてある通りに、その人と2人になって忠告ができますように。アーメン


写真はペンテコステ礼拝と、聖霊を求める祈り会!

そして交わりの時の写真