進藤龍也牧師のヤクザな日記

進藤龍也牧師のヤクザな日記

私がヤクザから牧師になった人生が真実の様に聖書の話はありえない!信じられない!ような真実の話です
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できるから言うのです。

マタイ5:14
しかし、あなた方に言います。
自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。

観察
山上の垂訓という神の国そのもののメッセージ!THE福音
ちなみに戦国時代のカトリックの宣教師たちは好んでここを語ったらしい。

適用
私を造ったのは神である。
できるから、神は私に言うのだ。
「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」と。

好きにならなくても、愛すれば良い。
愛を示せば良いのだ。
拒絶されれば仕方がないが、祈ることはできる。

インターネットでのいじめ、悪口の乱用、批判の記事。昔、コメントで「進藤死ね」の連発。
好きになれなくても「愛を示し続けた」結果、止んだ。
「進藤ありがとう」というコメントが最後になった。(進藤龍也牧師のヤクザな日記)

今でも、もちろん愛を示すと言う方法を用いる。それは神の御心であり、命令だから!
「迫害する者のために祈りなさい」

祈り
静岡県内の巡回伝道を無事に終え、収穫も手応えもあり感謝するばかりです。何より住み込みがしっかりやってくれていること、また、いろんな方が彼の為に祈り、実際的に顔を出して励ましてくれたことです。このような愛に応える人になってほしいと心からあなたに祈ります。アーメン

苦しむ事の意味

2コリント1:9
本当に自分の心の中死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者を蘇らせてくださる神により頼む者となるためでした。

観察
第二の手紙はパウロにとってとても嬉しい報告がなされた後のことである。
それは第一の手紙で厳しいことを書き、その前にも直接、厳しいことを語ってきたパウロであるが、大部分の人は悔い改めたというテモテの報告の後の手紙である。

これまでの命を賭けた伝道、宣教の中で死を覚悟してきたという回想を述べる。

その回想の中で、苦しみの中でパウロが得たものとは「神にのみ、より頼む者となるため」だった。

適用
知識人パウロが、知識は人を高ぶらせると言っている。
愛によって働く信仰だけが大事だと言っている。

技術や話術、知識や財産も、自分自身の力に頼る罠となる。

あるいは、人に助けを求めて行くこともあるが、それは本来するべきではない。
頼るべき先は神ご自身であり、依存しても良いという有難い存在は神だけ!なのである。

これからも神により頼む、神依存で生きてゆく。
また、ここ罪友に相談に来る人たちにこれこらも、生きる誠の神を紹介し続ける。 

祈り
全ての出会う人がキリストに出会えますように。その香りを放てるように謙遜な心であなたに仕えます。アーメン




今の私がある神の恵み

 

[コリント人への手紙 第一 15:10]

ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。

 

観察

15章は証を入れた復活論。

パウロがこの時点でクリスチャンとしての自分を振り返った時(AD 55ほどだから)幾多の試練を乗り越えてきたことだろう。

まさに命をかけた信仰の歩みである。

 

福音のために誰より働いた!と言えるほどに、本当に働いたことがよくわかる。使徒行伝で。

 

しかし、誇ることなくパウロは全ては神の恵みだと説く。

 

そして何より原点を忘れていない。

 

[コリント人への手紙 第一 15:8,9]

そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。

私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。

 

適用

パウロのように神の恵みであることに感謝すること。

働きを誇らず、神に栄光を帰すこと。

謙遜であること。

原点を忘れないこと。

救いの喜びを忘れないこと。

 

祈り

昨日の相談者が救われますように。

そのお友達も救われますように。

住み込みが原点を忘れることなく、忍耐を働かせて行くことができますように。

「約束のものを手に入れるために必要なものは忍耐です」アーメン


預言者の霊は服従する

 

1コリント14:32

預言者たちの霊は預言者たちに服従するものなのです。

それは神が混乱の神ではなく、平和(秩序)の神だからです。

 

1コリント14:40

ただ、全てのことを適切に秩序をもって行いなさい。

 

観察

問題の多いコリント教会に対する戒めと指導の手紙。

特に秩序について。

権威を認めることと、服従することについての教え。

その前の章は愛の章である。

つまり、愛がなければ服従はできないということ。

愛がなければ、服従ではなく、強制。

 

カトリックでは「清貧、貞潔、服従」である。

清貧が間違っていると説く人もいるが、清貧の奥義を知って言っているのではないかも知れぬ。清貧の心は偉大であると私は思う。

 

また、繁栄の神学が間違っていると説く人もいるが(極端なものでなければ)私はそう思わない。祝福として、豊かになると聖書には書いてある。しかし、豊かになることが目的ではない。必要が満たされるとも書いてある。キリストの似姿になることが人生の目的である。

 

信仰はバランスが大事!

神学と賜物(霊的な現れ)のバランスを欠いたコリント教会である。

 

(話が逸れたが)適用

神が求める服従とは、愛からくるもの。

自ら進んで!という服従。

服従を喜びとする関係は麗しいと思う。

神学生の時のインターン中に牧師の言いつけや、頼まれた奉仕が嬉しくてたまらなかった。今も先輩や師に頼まれたことなど二つ返事で断らないことを信条にしている。それが喜びだから。これからも「頼まれごとは試されごと」と、言った中村さんがいるけど、

 「頼まれごとは喜び」として請け負って行く。

 

平和の神=秩序の神 

 

権威を認めること。

神がおたてになった権威を認めないということは、神ご自身を認めないということになる。

 

神が認めた説教者の批評をするのも、神を批評するのと等しい。

心せねばならない。

 

神を愛するということは神が愛されているものを愛するということだ。

 

祈り

今日も正しい心で、素直な心で神と人とに向き合えますように。アーメン

 

感謝をとどめる

ヨブ37:14
これに耳を傾けよ。ヨブ。
神のくすしいみわざを、じっと考えよ。

観察
ヨブに対するエリフの知恵の言葉。
森羅万象、天地創造、すべての被造物の始まりについて神のみわざは、神以外は誰も知らない。
いかに科学が進歩して、解き明かすことができたとしても、無から作り出すことができるわけがない。

「神のくすしいみわざをじっと考える」

自分の人生に起こった数々の良いことや、奇跡的なこと、感謝なことを忘れずにいることだ。
それが神に栄光を帰することなのだ。


出エジプトしたイスラエル民族は、奇跡の数々の中を通り、目の当たりにしながらも、いつも不平不満ばかりを口にしていた。結末は、ヨシュアとカレブ以外は(モーセですら)約束の地には入れなかった。

適用
感謝を忘れない。
感謝の祈りを忘れない。
喜びを忘れない。
喜びを奮い立たせる!
不平不満を十字架の下に持ってゆき、忘れることを主イエスの名で祈り、断ち切る。
感謝で溢れる時に不平不満は去ってゆく。


祈り
住み込みくんに感謝500やってもらいます。何日もかかってもみんなできるようになります。私の心にも感謝の心で溢れさせてください。母教会の鈴木啓之牧師はいつも、感謝は信仰者の特権である!と言っておりました。感謝します。アーメン


良い心で律する

[コリント人への手紙 第一 9:26,27]
ですから、私は目標がはっきりしないような走り方はしません。空を打つような拳闘もしません。
むしろ、私は自分のからだを打ちたたいて服従させます。ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者にならないようにするためです。

観察
信仰の、しの字も知らない異邦人への伝道に携わるパウロの苦労が身に染みる。
自活しながら献金の、けの字から教えなければならない。ノンサポートの開拓伝道者には、この苦労がわかる。

適用
何になりたいのか?
どう生きたいのか?
必ず住み込みに聞く。
新しく教会に来た人にも聞く。
明確な目標設定が必要なのだ。
また信仰を持ち礼拝者として生きるなら、もし神の計画と違っていても軌道修正を、神がしてくれる。


そして、より良い人生で大切なのは、神の言葉に従うことだ。
 

良い心で進んでいくことだ。

特に指導者であれば、言ったことと、やっていることに一致をもたらすことだ。

言っていることと、やっていることが違う人のことを偽善者と言うのだから。

実際、自分の説教に生かされている所が多い。
自分の説教を思い出して律することもある。

ヤコブ1:22
みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません。

祈り
今日も住み込みくんと、みことばを読み、分かち合えることを感謝いたします。彼の病院、来訪が予定されておりますが、祝福のうちに進めることを前もって感謝いたします。アーメン



忠実な者とは

コリント人への手紙 第一 4:1,2
人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。

忠実とは、、
地方で踏ん張る牧師の中にそれを見る。
みのりの少ない未開拓地の宣教で踏ん張る宣教師の中にそれを見る。


キリスト教が盛んな、とある国の大きめの教会の牧師が、宮城県の震災支援にやってきた。
震災支援をしている地元の教会が基地となっていることが多い。
そこにやってきた外国籍の牧師は、教会を見てこう言ったそうだ。
「ちっちゃ」

私の友人でもあるので、聞いただけで腹が立つ。
自己実現(支援してるアピール)のための支援なんぞ要らねーぞ!と、言える状況ではない。いろんな想いを噛み締めて支援してきたのだった。

それに比べて、亡くなったオンヌリ教会のハ牧師はこう言った話をしてくれた。

日本の宣教は難しい!私たちの宣教師も10年でたった10人しか伝道できなくて、可哀想で可哀想で、韓国に戻ってきなさいと話したけれど、その10人のために日本に残って頑張って日本に居たいと、答えたそうな。

いつも神の声に従うこと。
それを忠実という。

コリント人への手紙 第一 4:1,2
人は私たちをキリストのしもべ、神の奥義の管理者と考えるべきです。
その場合、管理者に要求されることは、忠実だと認められることです。


祈り
私は結局、忠実でありたいと奮起してきたヤクザの世界で、忠実ではありませんでした。忠実なら、ヤクザのままでいたはずです。しかし、悪を善に変えることのできる父なる神の声に出会うことができました。感謝に尽きることで、その感謝を表すのは忠実であり続けることだけでしょう!どうか聖霊様、私を忠実なものに造り変えてください!アーメン