ゲゲゲの藝術学 -4ページ目

パルコの木彫

豚に真珠。真珠はパール。パールの女の子。だからパルコ。

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Laforet原宿のアクセサリーショップgondoaさんでの展示ですが、今のところ無期限での展示延長となりました。(とりあえず次の展示アーティストさんが決まるまでとのこと)

そういえば行こうと思ってたけど、いけなかったなぁ…という方、よろしくお願いします!

Google Art Projectを体験してみた

今日は天気も荒れ模様。ぽつぽつ雪も降ってきた。

こんな日は外に出るのもはばかられます。そんな出不精の現代人にぴったり。

googleがストリ-トヴューで世界の美術館を探索できるようにしてくれました。

その名もArt Project

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世界各地、色々な美術館が選択できます。

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Van Gogh Museum。館内を自由に歩けます。ただ、操作性をもうちょっと良くしてほしい。慣れるまで大変。

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ひまわりを鑑賞。

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結構なとこまで寄れる。

気分だけは味わえますね。

奥さんの幼少時代の木彫

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親子2代。

美術とその周り 完

その1は☞こちらをお読みください。
その2(前編)は☞こちらをお読みください。
その2(後編)は☞こちらをお読みください。
その3は☞こちらをお読みください。


ソフトバンクの孫さんが言うには、今、産業革命と同等の革命が起ころうとしている、いや、起こっているらしい。それは何か?

これは僕自身ネットでチラ見しただけなので、そのことについて突っ込まれても、ほとんど何も返すことができないが、要点はこうだ。

産業革命というのは人間でいう「筋肉」を外部化し、発展、飛躍させたもので、それまでの農耕社会を一変させてしまった(アメリカの南北戦争や日本の維新戦争は、構図としては産業対農耕の戦いであるとういう解釈が興味深かった)。

そして今起ころうとしている革命は人間でいう頭脳、「脳」を外部化して発展させていくものだと。
一時期騒がれたIT革命というのはそもそもそういうものであって、あと10年くらいで人間の頭脳を超えるコンピューターができ、さらに10年で、もっとすごいことになると。

だからこれからの仕事のあり方や職業が一変すると(今振り返ってみても5年前と現在を比べたら仕事の仕方はかなり変わったなと思う)。

確かに家庭用コンピューター、携帯電話、その他諸々のそれを取り巻くサービス、そういったものが出てきたことでテレビや雑誌メディアは変わらざるを得なくなった。
それはこれから色んな分野に波及して、いままでの色々なもののあり方を変えてしまう。
それは美術業界も例外ではないんだろうと。

社会全体のシステムが大きく変わってゆく。それまでのヒエラルキーが一気に逆転することだってあり得る。いままでのやり方、方法論では期待した成果を得られない。変わらなければいけない。ではどう変わるか?

その実験をいまのアーティストはやっている。特にカオスラウンジや0000はそういった意味で期待され、注目を集めている。
システムや社会全体を巻き込んで新たな流れやムーブメントを作るには個人の力だけじゃできない。それがグループでの活動という図式を生み出しているのではないかと。

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だから、今やっていくべきことは地ならしをして、色々な仕組みを取り壊して、使える物は残し、旧態依然の物は捨てる。
この環境にあった生態系に変える。
新たなサーキットの構築。

彼らのやろうとしていることは、そういうことなんだろう。

「アーティストならば純粋に作品で勝負をしたらいい。」
そういう人もいるだろう。作品の質を磨けと。

ただ、作り手、権威、受け手の三者がそれぞれどういった役割を全うすべきかが見えず、なんだか全てが不透明で、のれんに腕押しな状態で作品の質を磨けって言われてもねぇ…というのが本音である。

高く飛び上がるにはしっかりとした地面がいる。

「これはいい!」という改心の出来(と少なからず本人は思っている)の作品を作って、社会や、アートシーンと呼ばれるものに投げても何も跳ね返って来ず、そんな状態が10回、20回と続けば、普通の人間は誰でも嫌になる。
そしてそこから去ってゆく。

それこそ全国で毎年数千人はいる美大の卒業者(高い倍率を勝ち抜いて入学し、能力のある若者たち)の才能を活かす術無く枯渇させているのが現状だ(これは村上さんもいっているように、非常に問題だと思う。だからこそ大学教育を変革する必要がある。普通の一般大学ならその成果を就職率で計ると思うが、美大の場合、特にファインアートの作家志望者ならギャラリーの専属になるとかの、とりあえずはそういったところを指標にしていくべきではないだろうか。もう高度経済成長、バブルの時代は終わったんだから…。今までがそうだったんだから、これからもそれで良いは、ナシよ)。

だから、地面がないならそこに鉄板をおいて、まずは投げた球がちゃんと返ってくるようにしてやる。今までの方法論じゃなくても、この時代、ネットがある、ブログもある、ツイッターもある、ユーストもある。

前ほど権威に頼らなくとも情報が発信できる。
そして、それこそ以前のような現代美術ファンだけに限らず、より多くの不特定多数の人に門戸を開くことができる。

そして、そのような状況にこそ活路を見いだすこと。

今、多くのアーティストがやろうとしていることは、そういう時代認識のうえでの行動のように思われる。



と…、ここまで一気に書きましたが、ここから先は色んな資料等を読み込まないと書けなくなってくるので、一先ずこれまで。

<完>

美術とその周り その3

その1は☞こちらをお読みください。
その2(前編)は☞こちらをお読みください。
その2(後編)は☞こちらをお読みください。


お金に関してこの年齢になって色々経験したり、学んだりして思うのは、お金は「信用」(ホリエモンもいってた)なんだと。

絵が売れる=売り絵(売れるように描いた絵)といって軽蔑する人もいるけど、買う方だって馬鹿じゃない。千円~2千円じゃなくてウン万円、ウン十万円の身銭を切るとき、本当に「この絵が良い!」と思わなきゃ買わないし買えないですよ。

「いい、すばらしい」ってのは信用ですよね。

ただ、純粋にその絵が良いと思わなかったとしても、その作家のものだから、○○で扱っているから、そういう理由で売れたとしてもそれも信用。

そういう信用がお金に換わる。

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だって美術品は生活必需品(食品とかトイレットペーパーとか切羽詰まって必要になるもの)じゃないもの(←文脈から切り離さないでくださいよ)。

だからこそ、それ自体で価値を持ちづらいからこそ、信用が必要になる。

美術に関して、こう書くと納得しない人が出るのはわかります。

じゃあ、ピカソの絵が喫茶店にあって、それを本物だと思う人が何人いますか?
デュシャンの「泉」が本当に男子トイレにあったら、それが美術品だと誰がわかりますか?

それ自体だけに価値がある訳じゃない。だからブランディングして信用を作ることが大事なんだと。

そういったことが最近自分の中で見えて来ました。

ただ、絵を売る、売らないは個人の自由だし、それについてはどういうスタンスでも良いと思う。

僕個人としては絵を描いて、美術をやって、それで生活ができるならそんな良いことはないなぁと思います(現実はほど遠いですけど)。

お金が発生するということは社会と接点を持っているといえます。それは社会活動の対価ともいえます。社会のなかで信用や影響力を持てばお金が発生する(ことが可能である)ということです。

お金を儲けたいからアートをするというのは僕自身違うなと思いますが(クーンズは株よりアートの方がインサイダーし放題だし儲かるという理由でアーティストになったらしいですが…)、それが社会のなかでの信用の対価なのだと思えば、お金と美術について変なアレルギー反応は起こさないんじゃないだろうかと思います。

そして最近は、僕らより下の世代(20代前~中盤)の活動や行動を見るかぎり、その辺(お金と美術)にはあまり偏見はないようです。

美術を社会に着地させる方法を考えず、求道者のように美術をおこなっていたのが僕らから上の世代であり、僕らより下の世代の興味は、美術と社会のコネクションをどのように、どういった形で求めていくか?ということのようです。というか今の日本の美術シーンの共通の問題点はその一点に尽きるのではないでしょうか。

美術館、ギャラリーなどの既存のシステムからの脱構築、それに尽きるように思います。

だからこそカオスラウンジや0000のようなグループでの表現活動が目立つようになったと言えるのではないでしょうか。

つづく

美術とその周り その2(後編)

その1は☞こちらをお読みください。
その2(前編)は☞こちらをお読みください。


でもここで一つ問題なのは、自分探しはそのままでは結局「自分」を抜け出せないということです。自分の内面に深く踏み込んでいって、ものすごく広い、広大な世界を発見しても、それを外の世界に持ち出せないというか、持ち出す術を学べないというか。それが問題なんだと思います。

その外に持ち出す方法が絵画技術の習得や美術史を読み解くことでの美術における共通言語の獲得だったり、もっと広く捉えればアートマネージメントのような、社会でのサバイバルの仕方だったりということだと思います。

が、そんなことはこれっぽちも教わらなかった(でもそれは美大受験をするにあたって、そもそもお金に対するルサンチマンを抱き、そこからのエスケープを目的にして大学にやってきた若者に、そんな教育を施そうと思っても、成立しなかったんだろうなぁと思いますけど)。

だから大学も学生も、現実を見せない、見ないという「なんだかなぁ…」という関係になちゃって、そういう意味では両方とも共犯関係なんですよね(自分を含め反省…)。

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でも「それじゃイカンだろう!」と声を荒げているのが、怒れる人、村上さんなわけですよね。

大学から先のビジョンがないじゃないか!大学は作家を養成する機関なんじゃないのか!!お金がなくてもいいとか言ってんじゃない!!!お金なきゃアートをやり続けることすらできないんだよ!!!!と。

僕からすると村上さんの言葉は厳しいけど正しいと思う。
「お前ら目を覚ませ!」という愛の鞭に思える。
だってタダの理想論じゃなく、現実を動かして実践しているんだもの。

アーティストじゃなくても、会社の社長になるという夢を持って、それを実現するためには、夢だけじゃなくて、恐ろしいくらいの手続きと実務の連続なんだと思う。それなくして現実は動かないという事実(僕自身結構口だけだったりするので、だからこそ現実を一歩一歩動かしている人はすごいと思う)。

そういった現実的な手続きをちゃんと教えていくことがこれからの大学に求められることになってくるんだろうなぁと(僕が卒業して7年くらい経ってるから、多少なりともそういった授業は増えているんだとは思います)。

理想だけでなく、社会のなかで今、どういった像のアーティストが求められているのかってことを考えて、いや、社会のなかでどういった役割を背負わせる人材を輩出するかってことを考えて教育にあたらないといけないんだろうなぁ。

マーケットで売れる。美術史的に重要。そういったピンポイントで、教える側がゴールを設定して指導する、ただ単に個性を伸ばすとか、自分探しじゃなくて。

教育に関してはそういった変革がいま求められているし、そうならなきゃダメなのだと思います。

つづく

美術とその周り その2(前編)

その1は☞こちらをお読みください。

美大での4年間は浮世離れした生活だった。
ほんとにそれまでの生活が嘘のよう。美術について語り、それこそ昼間から酒を飲み(僕は2浪だったので大学1年から普通にお酒が飲めました)、恋愛もして…。

そこはまさに、幻の黄金郷、エルドラド!

大人のできることをこの頃初めて体験し始め、毎日が新鮮で、それこそお祭りのように楽しんだ。文字通りバラ色の生活…。

そんな4年間(僕の場合は大学院まで言ったので6年間ですが)で美術について何を学んだか?

それは美術についての忠誠心と、表現という名の自分探しだった。

忠誠心は、そもそも美大受験では人間性を差し置いても、絵の才能があれば大学に受かる訳だし(東京G大の油画に関しては、学科での判定はほぼ無いに等しいと聞いています)、大学に入った後も良い作品を作っていれば教授も仲間も一目置くし、とにかく「作品がすごい>その他諸々」という価値観が形成されていきます。

大げさに言えば社会生活なんてできなくても、美術をやって野たれ死ぬほうが美しい、カッコいいという図式が頭の中で出来上がる訳です(正直、僕自身家族を持つまでそう思ってたし、20代前半の頃はもう、その価値観Maxでした)。

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そして、表現という名の自分探しというのは、無限に続くループスライダーのようなものなので死ぬまで探求し続けることが可能です。

受験勉強では絵を描くといっても課題(予備校側が考えた問題)が与えられた中でやるわけで、自発的な表現活動ではなかったりします。そこで、大学入学後は自分のやりたいことを明確にしていく必要があります。

そこでまずは表現をしていくうえでのベースとなる自分探しをさせられます。

単にその時期に流行っている表現スタイルを模倣するのではなく、地に足の着いた表現をするよう叩き込まれたことは、決して悪いことではないし、これから表現活動をおこなううえで、まずは通らなければならない一つの関所、壁のようなものだと思います(この段階で自分の方向性が定まらず、時間切れで表現活動にさじを投げた学友は多かったように思います)。

そういう意味では非常に重要な教育(というかその当時の母校の授業は野放し、放任という形式のものでしたが…)を受けました。

つづく

美術とその周り その1

日本の美術はどうなっているのか…。

なんだか今、美術シーンは、にわかに活気づいてきた。というかなにかが変わり始めている。僕も作家の端くれ、聞いたこと、観たことをここで少しまとめてみようと思う。自分のためにも。

ここ最近、というか去年は村上隆、カオスラウンジ、0000の年だったように思う。とにかく、この3人(1人+2グループ)の話を僕が良く耳にした。意識的か無意識的かは別にして。

村上さんには会ったことはないが、欧米のど真ん中でアーティストとしてシノギを削っている、日本が世界に誇る巨人だ。
美術をやる者、知る者としてその名を知らない者はいないだろう。
そんな村上さんを学生時代から知っている人が僕の仕事場にいて、舞台裏での出来事などをちょいちょい聞いていた。
知り合いがカイカイキキに出入りしてしていたこともあり、村上さんには勝手な親近感を持っていた。

しかし美術をやっている僕の周りにはなぜかアンチ村上態勢の人が多い。
多分、それは彼がバリバリのリアリストだからだろう。

日本にはポエティックで感傷的な作家が多い(ように思う)。だから美術についての考え、求めているものがお互いでまるで違う。対立は当たり合えだ。

決定的な部分は「お金」についての考え方のように思うが…。

「美術と金は水と油。金のことを語るなんてアーティスト失格!」
そういった風潮が美大出身者に根強い。なぜか?

これは村上さんも語っている、日本の美術大学の教育システムに問題もあるようだ。
僕自身、美大を出ているし、美術予備校(美大受験の実技を教える予備校。ここに通わないとまず美大には受からない。)で講師をしているので、この辺りはかなり的確に現状を把握できると思う。

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これはあくまで僕の個人的な感想だが、予備校で油絵やファインアートを専攻する若者はなぜかお金で苦労している者が多い。いや、多かれ少なかれお金にはだれでも苦労すると思うが、17、8の若さでお金についての悩みを精神的にかなり背負っていたりする。

お金に苦労しているなら、現実的にはデザイン科を専攻するのが普通のように思う。デザインのほうが大学卒業→就職という社会に直結する道が見えやすい。(ファインアートが必ずしも就職できないと言っているのではないので。誤解のないように。)
なのにどうしてファインアートを選ぶのか?

僕自身、少なからずお金に対する不安を抱えながら、しかし油絵を専攻した者としてその理由を問われれば、

「もう世の中の色々なもんをかなぐり捨てて絵の中に逃げちゃいたい。もうな~んにも考えたくない。お金とかいう社会を動かす根源が、僕を苦しめている。世俗にまみれるのはまっぴらごめん。」

と、そんなことを本当に思ったかどうかはさておき、半分は出家するような気分でこの道に飛び込んだ気がする。

お金に対するルサンチマン。人格形成にそれが深く関与し、そこからのエスケープとして「美術/アート」というユートピアを目指したのではなかっただろうか。

なんだか話がかなり自分の生い立ちに脱線してしまったが、まぁ、「美術/アート」は理想郷であり、それが人の社会で、人によっておこなわれる社会活動であるということが見えない状態で、まずは美大というエルドラドに到着するのだ。

つづく

パンダの木彫

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パンダを作りました。また一つ仲間が増えました。娘も気に入っています。

展示風景

今お世話になっているgondoa Laforet HARAJUKUさんのBlogに展示風景が紹介されてます。

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