『源平合戦』⚔️ ‼️
(『治承・寿永の乱』)



『一ノ谷の戦い』


『一ノ谷の戦い』
(いちのたにのたたかい)は、
平安時代の末期の
寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に
摂津国『福原』
および『須磨』で行われた戦い。

『治承・寿永の乱』
(源平合戦)における戦いの一つ。















【背景】

寿永2年(1183年)5月の
『倶利伽羅峠の戦い』で
源義仲に敗れた平氏は兵力の大半を失い、
同年7月に安徳天皇と『三種の神器』を奉じて都を落ち、『九州大宰府』まで逃れた。




『倶利伽羅峠の戦い』





京を制圧した義仲だが、統治に失敗して
後白河法皇とも対立するようになった。
義仲は後白河法皇の命で『平氏追討』のために出兵するが『備中国』で大敗を喫してしまう(『水島の戦い』)。
後白河法皇は義仲を見限り、
『鎌倉』の源頼朝を頼ろうとするが、
これが義仲を激怒させ、後白河法皇は幽閉されてしまう(『法住寺合戦』)。

情勢が不利になり脱落者が続出して
義仲の兵力は激減してしまい、
讃岐国『屋島』にまで復帰していた平氏へ
和平を申し出るが、平氏はこれを拒絶した。
寿永3年(1184年)1月20日、
頼朝が派遣した範頼、義経の鎌倉政権軍に攻められて義仲は滅んだ(『宇治川の戦い』)。



『宇治川の先陣争い』









この源氏同士の抗争の間に
勢力を立て直した平氏は、
同年1月には『大輪田泊』に上陸して、かつて平清盛が都を計画した『福原』まで進出していた。
平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配し、数万騎の兵力を擁するまでに回復していた。
平氏は同年2月には京奪回の軍を起こす予定をしていた。

1月26日、後白河法皇は、
頼朝に『平家追討』と平氏が都落ちの際に持ち去った『三種の神器奪還』を命じる
『平家追討の宣旨』を出した。
平氏の所領500ヵ所が頼朝へ与えられた。





【合戦の経過】
以下は『吾妻鏡』『平家物語』などを基にした巷間で知られる合戦の経過である。





【前哨戦】

寿永3年(1184年)2月4日、
鎌倉方は矢合せを7日と定め、
範頼が【大手軍】5万6千余騎を、
義経が【搦手軍】1万騎を率いて
京を出発して『摂津』へ下った。
平氏は『福原』に陣営を置いて、
その外周
(東の『生田口』、西の『一ノ谷口』、
山の手の『夢野口』)
に強固な防御陣を築いて待ち構えていた。

同日、搦手を率い『丹波路』を進む義経軍は
播磨国・『三草山』の資盛、有盛らの陣に夜襲を仕掛けて撃破する(『三草山の戦い』)。
前哨戦に勝利した義経は
敗走した資盛、有盛らを土肥実平に追撃させて山道を進撃した。

2月6日、『福原』で清盛の法要を
営んでいた平氏一門へ後白河法皇からの使者が訪れ、『和平』を勧告し、
「源平は交戦しないよう」命じた。
平氏一門がこれを信用してしまい、警戒を緩めたことが『一ノ谷の戦い』の勝敗を決したとの説がある(後述)。

迂回進撃を続ける【搦手軍】の義経は
『鵯越』(ひよどりごえ)で軍を二分して、
安田義定、多田行綱らに大半の兵を与えて
通盛・教経の1万騎が守る
『夢野口』(山の手)へ向かわせる(後述)。
義経は僅か70騎を率いて
山中の難路を西へ転進した。

『平家物語』によれば、
義経の郎党の武蔵坊弁慶が
年老いた猟師を道案内として見つけてきた。
猟師が『鵯越』は到底人馬は越えることのできぬ難路であると説明すると、
義経は鹿はこの道を越えるかと問い、
冬を挟んで餌場を求め鹿が往復すると答えた。
義経は「鹿が通えるならば、馬も通えよう」と言い案内するよう求めたが
老猟師は自分は歳をとりすぎているとして
息子を紹介した。
義経はこの若者を気に入り、郎党に加えて
「鷲尾三郎義久」と名乗らせた。

難路をようやく越えて義経ら70騎は
平氏の『一ノ谷』陣営の裏手に出た。
断崖絶壁の上であり、
平氏は山側を全く警戒していなかった。




鷲尾三郎 ‼ 。。。









『生田の森』

開戦・『生田の戦い』

2月7日払暁、先駆けせんと欲して
義経の部隊から抜け出した
熊谷直実・直家父子と平山季重らの5騎が
忠度の守る『塩屋口』の西城戸に現れて
名乗りを上げて合戦は始まった。
平氏は最初は少数と侮って相手にしなかったが、やがて討ち取らんと兵を繰り出して直実らを取り囲む。
直実らは奮戦するが、多勢に無勢で討ち取られかけた時に土肥実平率いる7000余騎が駆けつけて激戦となった。

午前6時、知盛、重衡ら平氏軍主力の守る
東側の『生田口』の陣の前には
範頼率いる梶原景時、畠山重忠以下の
【大手軍】5万騎が布陣。
範頼軍は激しく矢を射かけるが、
平氏は壕をめぐらし、逆茂木を重ねて陣を固めて待ちかまえていた。
平氏軍も雨のように矢を射かけて応じ源氏軍をひるませる。
平氏軍は2000騎を繰り出して、白兵戦を展開。
範頼軍は河原高直、藤田行安らが討たれて、死傷者が続出して攻めあぐねた。
そこへ梶原景時・景季父子が逆茂木を取り除き、ふりそそぐ矢の中を突進して
『梶原の二度懸け』と呼ばれる奮戦を見せた。

義経と分かれた安田義定、多田行綱らも
『夢野口』(山の手)を攻撃する。

『生田口』、『塩屋口』、『夢野口』
で激戦が繰り広げられるが、
平氏は激しく抵抗して、
源氏軍は容易には突破できなかった。










『梶原の二度懸け』






















『逆落とし』!!


『逆落とし』

精兵70騎を率いて、『一ノ谷』の裏手の
断崖絶壁の上に立った義経は戦機と見て
坂を駆け下る決断をする。

『平家物語』によれば、
義経は馬2頭を落として、1頭は足を挫いて倒れるが、もう1頭は無事に駆け下った。
義経は「心して下れば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」
と言うや先陣となって駆け下った。
坂東武者たちもこれに続いて駆け下る。
二町ほど駆け下ると、屏風が立ったような険しい岩場となっており、
さすがの坂東武者も怖気づくが、
『三浦氏』の一族 佐原義連が
「三浦では常日頃、ここよりも険しい所を駆け落ちているわ」と言うや、
真っ先に駆け下った。
義経らもこれに続く。
大力の畠山重忠は馬を損ねてはならじと
馬を背負って岩場を駆け下った。

崖を駆け下った義経らは平氏の陣に突入する。
予想もしなかった方向から攻撃を受けた
『一ノ谷』の陣営は大混乱となり、
義経はそれに乗じて方々に火をかけた。
平氏の兵たちは我先にと海へ逃げ出した。


鎌倉幕府編纂の『吾妻鏡』では、
この戦いについて
「源九郎(義経)は勇士七十余騎を率いて、
一ノ谷の後山(鵯越と号す)に到着」
「九郎が三浦十郎義連(佐原義連)ら勇士を率いて、鵯越(この山は猪、鹿、兎、狐の外は通れぬ険阻である)において攻防の間に、
(平氏は)商量を失い敗走、或いは一ノ谷の舘を馬で出ようと策し、或いは船で四国の地へ向かおうとした」とあり、
義経が70騎を率い、険阻な『一の谷』の背後(鵯越)から攻撃を仕掛けたことが分る。
これが『逆落し』を意味すると解釈されている。

九条兼実の日記『玉葉』では
【搦手】の義経が『丹波城』(三草山)を落とし、次いで『一ノ谷』を落とした。
【大手】の範頼は浜より『福原』に寄せた。
多田行綱は山側から攻めて
『山の手』(夢野口)を落とした。
と戦況を書き残している。
ここでは義経が『一ノ谷』を攻め落としたことは記しているが、『逆落し』の奇襲をかけたとは書いていない。

なお本項目の経過解説と画像では、
【逆落しの場所】を現在この合戦の説明の際に主流になっている
一ノ谷の裏手『鉄拐山』とする説
(一ノ谷説)を採っているが、
『平家物語』や上記『吾妻鏡』では
義経の戦った場所は『鵯越』
(一ノ谷から東方8キロ)となっており
『鵯越説』も根強く、
またそもそも『逆落し』自体が
『平家物語』が創作した虚構である
という見方も有力である(後述)。





『搦め手の大将軍』源九郎義経 
遠江守安田義定(甲斐源氏)
大内右衛門尉惟義
山名三郎義範
斎院次官親能
田代冠者武田信綱  
大河戸太郎広行
土肥次郎実平
三浦十郎義連
糟谷藤太有季    
平山武者所季重
平佐古太郎為重
熊谷次郎直美同小次郎直家  
小河小次郎祐義
山田太郎重澄
原三郎清益







【平氏敗走】
 
『一の谷合戦図屏風』
舟へ戻ろうとする平敦盛を呼び止める
熊谷直実


混乱が波及して平忠度の守る
『塩屋口』の西城戸も突破される。
逃げ惑う平氏の兵たちが船に殺到して、溺死者が続出した。

『生田口』の東城戸では副将の重衡が
8000騎を率いて安田義定、多田行綱らに攻められ危機に陥っている『夢野口』(山の手)の救援に向かった。
午前11時頃、『一ノ谷』から煙が上がるのを見た範頼は【大手軍】に総攻撃を命じた。
知盛は必死に防戦するが兵が浮き足立って、遂に敗走を始めた。

安徳天皇、建礼門院らと沖合いの船にいた
総大将の宗盛は
敗北を悟って『屋島』へ向かった。


西城戸の将の忠度は逃れようとしていたところを岡部忠澄に組まれて負傷し、覚悟して端座して念仏をとなえ首を刎ねられた。
歌人だった忠度が『箙』に和歌を残していた逸話が残っている。





合戦の一番乗りの功名を果たした熊谷直実は
敵を探していると、
馬に乗って海に入り、沖の船へ逃れようとする平氏の武者を見つけて
「敵に背を向けるのは卑怯であろう。
戻りなされ」と呼びかけた。
武者はこれに応じて、陸へ引きかえして直実と組むが、勇士の直実にはとても敵わず、組み伏せられた。
直実は首を取ろうとするが、武者の顔を見ると薄化粧をした美しい顔立ちの少年だった。
武者は清盛の弟経盛の子敦盛16歳と名乗った(『源平盛衰記』による。
『平家物語』では名乗らない)。

直実の息子直家も同じ16歳で、憐れに思い逃そうとするが、他の源氏の武者が迫っており、とうてい逃れることはできまいと泣く泣く敦盛を討ち取った。
直実は武家の無情を悟り、
後に出家して『高野山』に登った。
『平家物語』の名場面である。

史実でも直実は敦盛を『高野山』で供養し、その後出家して法然に仕えている。
『吾妻鏡』によると
出家の直接の理由は所領を巡る訴訟に敗れた際、梶原景時の言動に怒ったためである。


敦盛 ‼ 。。。




敗走した平重衡は、
梶原景季と庄氏によって捕らえられた。

『吾妻鏡』では
児玉党の武将である庄太郎家長に、
『平家物語』では
庄四郎高家に捕らえられたとある
(研究者の間では、武功に見合うだけの恩賞を与えられている点から『家長説』が有力視されている)。

この敗走で平氏一門の多くが討たれ、
平氏は『屋島』へ逃れて、戦いは鎌倉方の勝利に終わった。







【戦後】
『範頼軍』は
平通盛、平忠度、平経俊、平清房、平清貞を、
『義経・安田義定軍』は、
平敦盛、平知章、平業盛、平盛俊、平経正、
平師盛、平教経をそれぞれ討ち取ったと言われている。

ただし、『平家物語』や『吾妻鏡』など
文献によって戦死者は多少異なっている。
この戦いで一門の多くを失った平氏は
致命的な大打撃をうける。

後白河法皇は
捕虜になった重衡と『三種の神器』を交換するよう平氏と交渉するが、宗盛はこれを拒絶し、合戦直前の休戦命令に従っていたにも係らず、突然源氏に襲われたということに対する抗議と「休戦命令は平氏を陥れる奇謀ではなかったか」との後白河法皇への不審を述べ立てている。

合戦に大勝した『鎌倉政権軍』も
戦略目標である『三種の神器奪還』には失敗しており、『屋島の戦い』、『壇ノ浦の戦い』へと戦いはまだ続くことになる。




『一ノ谷』!! 天然の要塞 ‼。。。
目の前には海 ‼。。背後には断崖絶壁の山 ‼
まさに ‼ 天然の城郭 !! ⛰️ 

『一ノ谷』‼… 陥落 !!⚔️






『一ノ谷の戦い』‼…を経て、



この!!🏹✨
『屋島の戦い』‼。。へ !! ⚔️

難攻不落の‼…『屋島』⛰️🌊🌊❗❗


『屋島』は ‼。。。
『四国』なので♪。。(笑)✨

それは、またいずれ ‼…この先にやってくる‼
『四国』編で !!✨✨


































































『多田源氏』‼


多田行綱 ‼ 。。。




多田蔵人行綱 (1140~1189)

蔵人 左衛門尉
 建久二年八月下
鎌倉謁源頼朝公叙正五位下摂津守
(中川史料集)

保延六年(1140年)、
四月、太郎生、后ニ行綱ト云、 
保元三年(1158)元服、(高代寺日記)
長寛二年(1164) 八条院蔵人 
嘉応元年(1169)、五月、
行綱長子生太郎、后ニ行盛 (高代寺日記)

『鹿ケ谷ノ変』
(安元3年・1177年)の時には 37歳、
『一ノ谷合戦』
(寿永3年・1184年)の時には44歳、となる。
文治5年(1189年)11月24日没、
享年50歳 (『讃岐多田氏系図』)












後白河法皇 ‼ 。。。