『梶原源太の “ 箙の梅の故事 ” 』

『一の谷合戦』は、
西は『一の谷』、東は『生田の森』までの
広範囲間で行われていた。

『一の谷』で義経が奇襲攻撃をかけたころ。。
平家の東の陣、『生田の森』でも、
激しい攻防戦の真っただなかにあった。

ここでは有名な『宇治川の先陣争い』をやった源氏方の武将・梶原源太景季
(かじわらげんたかげすえ)が、
平家の軍勢に囲まれて苦戦していた。
その最中 ‼️…
彼は美しく咲き誇った梅の一枝を、矢を入れる『箙』に挿して奮迅したという。

戦場にあって梅の香を愛でる・・・・・・
これこそ武士の風流心であり、よきたしなみであると、梶原は風流武士の異名をとった。

その場は、引き返してきた父・
梶原平三景時(かげとき)の助太刀で逃れたが、その後、父子は
平家の大将・重衡(しげひら)を生け捕って
勲功を立てた。

本足跡





梶原 景季 ‼️。。
梶原源太景季 ‼️。。




『えびらの梅』



『箙の梅』

『平家物語』【梶原二度の駆】の段。

『一の谷の合戦』時、
『生田の森』でのこと。
梶原景季の弟・景高が、一騎駆けして
後陣の続かぬ内に敵陣に突入してしまう。

景季と、父・景時は、景高を救おうとして
敵陣に駆け入り、奮戦する。

敵陣を打ち破って一旦は後退した景時だが、
景季が敵陣に深く入り戻らぬので、
もう一度敵陣に入り、景季を救出する。
これを『梶原が二度の駆け』と言う。


『平家物語』は、現存する諸本を
【二系統】
(語り本系=
琵琶法師が口承で伝承してきたもの・
 読み物本系=
 読み物として、話が増補されけきたもの)
に大別できますが、
この内、読み物本系の中に、
『一の谷の合戦』の時、景季が
『箙(えびら)』
(=矢を入れて肩や腰につける武具)に
梅の一枝を挿して戦ったという逸話が
載っています。
この逸話は、『謡曲』にもなっていて、
「生田神社」には、ゆかりの梅の木があります。






謡曲『箙』と梶原景季

謡曲『箙』は、
梶原景季が箙に梅をさして奮戦した様を描いた勝修羅物である。 
源平盛衰記には、源平一の谷合戦の時、
梶原景時、景季父子は
生田森で平家方の多勢に囲まれて奮戦した時の様子を
『中にも景季は、心の剛も人に勝り、
数奇たる道も優なりけり。
咲き乱れたる梅が枝を箙(矢をさし入れて背中に負う武具)に副へてぞ挿したりける。
かかれば花は散りけれども匂いは袖にぞ残るらん。
「吹く風を何いといけむ梅の花、
散り来る時ぞ香はまさりけり」
という古き言までも思い出でければ
平家の公達は花箙とて優なり、
やさしと口々にぞ感じ給いける』
と称讃の言葉で現わしている。
戦場の凄まじさ、殺伐さの中に、
風流な香をただよわせて、
何とも表現のし難い風情である。
                    
『謡曲史跡保存会』。。本足跡



『えびらの梅』









『八丁梅』


「生田神社」の『八丁梅』

梅花の清香が遠く八丁に薫ずると言う。












梶原景季 ‼️




 梶原景季(かげすえ)‼️。。 と言えば⁉️

名馬『生唼(いけずき)』争奪戦
 『宇治川の先陣争い』!! 








『一の谷合戦』は、
西は『一の谷』、東は『生田の森』までの
広範囲間で行われていた。

『一の谷』で義経が奇襲攻撃をかけたころ。。
平家の東の陣、『生田の森』でも、
激しい攻防戦の真っただなかにあった。

ここでは‼️…源氏方の武将・梶原源太景季
(かじわらげんたかげすえ)が、
平家の軍勢に囲まれて苦戦していた。




【平安時代の騎兵】
 平安時代は『弓射騎兵』が戦力の中心であり、馬に乗った武士達が戦場の主役であった。
そのため、“ 騎馬武者だけの部隊
  による機動戦術も可能 ” であった。
この頃の騎兵同士の戦いは
『一騎打ち』がメインであり、
お互いに矢を射かける『弓射』、
太刀や長刀による馬上戦『打物』、
そして落馬後に腰物で敵の首を取る『組討』という【流れ】であった。


『騎兵の特質』。。とは 、

 日本でもっともすぐれた騎兵である
『坂東武者』でさえ、馬とは格闘用のものだとおもっている。
かれらは馬を『一騎打ち』の道具としていた。
たとえば
駈けさせながら相手を射倒す『騎射の術』、
馬上の『組みうち術』、
一ツ所で蹄をかつかつ鳴らしながら
馬を回転させる『輪乗り』など、
『坂東武者』のもっとも得意とするところであり、『平家武者』はつねにそれを恐怖していた。
 が、“…機動の思想がない。”

 乗馬武士を純然たる騎兵集団として運用し、【騎兵の特徴】である長距離移動による奇襲という戦術思想がなかった。
『源氏』だけでなく『平家』にもなく、
ないどころか、その後もない。
(ようやく三百七十余年後に織田信長が出て
桶狭間への騎兵機動による奇襲を成功させたが、わずかにその一例をのぞき、)
その後にもなく、維新後、近代騎兵の思想のが入ってのち知識としてようやくその運用法を知った。
しかし、ヨーロッパでも、義経の騎兵活動ほどのあざやかさを示した例は、数例しかなかった。

―『騎兵の特質はなにか。』
と、明治陸軍の騎兵監であった秋山好古は
陸軍大学の学生に講義したとき、
いきなり拳をかため、素手をもってかたわらの窓ガラスをつきやぶり、粉砕した。
―『これだ。』
という。素手が、血みどろになった。
要するに騎兵は敵の意表を衝き、全滅を覚悟した長距離活動と奇襲を特徴とする、という意味を、この明治の軍人は象徴的に説明しようとしたのであろう。

『義経』~鵯越~ より 📕




義経の騎兵戦術の原点が
奥州滞在時代の体験である。


いまの神戸で滞陣している平家軍に対し、
『一ノ谷』の崖の上から奇襲し、
平家を海へ追いおとした。
ついでいまの香川県の『屋島』を軽騎兵によって急襲し、さらに海に追いやった。
最後に、いまの山口県『壇ノ浦』では海戦を演じ、ショーを見るようにあざやかに勝った。

 義経が世界戦史上の存在であることは、
騎兵をかたまりとして運用し、成功したことにある。
 遊牧民族では、常用される。
しかしそれ以外では、
【騎兵運用の理想とされるこの戦法】をおこなったのは、世界でも義経がはじめてだったのではないか。
 平安時代の『奥州』は、『牧の国』だった。
牧場では、馬が一頭駈けだすと、群れがそれにならって駈けだす。
そのとどろくような光景を、義経は
『奥州藤原氏』のもとに流寓しているときに見たはずである。
その一頭ずつに騎士をのせればそのまま戦法になるのではないか ⁉️。。
 ついでながら、それまでの日本の合戦では、騎乗の者一騎が敵の一騎と格闘するだけで、いわば個別的な格闘の総和が、全体の勝敗になった。
騎兵の集団運用をすれば、足し算が掛け算になるのではないか ⁉️。。

『街道をゆく』~北のまほろば~ より 📕





『一ノ谷の戦い』から『屋島の戦い』へ‼️…

 義経が『一ノ谷』を
小部隊の騎兵で襲撃して成功した。
平家がまもる『一ノ谷城』については、
源範頼の源氏本軍が平面から攻めていたが、
義経は京都で騎兵団を編成し、
ひそかに『丹波篠山』へ迂回し、山路をとおって『三草高原』を越え、やがて『鵯越』へ出て『一ノ谷』に向かって『逆落とし』の奇襲をかけた。
また『屋島襲撃』も小部隊の騎兵をもってした。

『坂の上の雲』~騎兵~ より 📕





 寿永三年(1184年)2月4日、
源範頼を総大将とする源氏軍は京を出発し
平氏が陣を構える『一ノ谷』へ向かった。
途中、源氏は軍を二手に分け、
範頼率いる『本軍』』(約5万5千)が
『一ノ谷』東方の『生田口方面』へ、
義経率いる『別動隊』(1万~2万)は
迂回して西方の『塩屋口方面』へ進軍。
その後、『三草山』の敵陣を夜襲攻撃で壊走させた義経は『鵯越』でさらに軍を二手に分け、自らは僅か70騎を率いて
『一ノ谷』の裏手に回り込んだ。

本 ⚔️


乗馬武士を純然たる『騎兵集団』として運用し、【騎兵の特徴】である長距離移動による奇襲という戦術 ‼️。。⚔️

『騎兵』をはじめて【集団】として生かし‼️…
その有効性を最大に発揮し成功させた‼️。。

それを‼️…はじめて‼️。。であり、
唯一‼️。。であり、、
それも‼️…あざやかに‼️。。成功させた‼️

史上唯一の例 ‼️。。義経 ‼️。。


(その後にあるのも‼️…
あの‼️織田信長 ‼️。。のみ ⚔️キラキラ↑ )



『一ノ谷』




平家が大手軍をおいた『生田の森』は、
当時、前を流れていた生田川を堀としていました。
これを攻める源氏軍として参戦した
梶原景時は、先陣を切った河原兄弟が討たれた後、三人の子息、郎党とともに
敵陣に一気に突入し、総攻撃をしかけます。
この時、景時の嫡男源太景季は、
敵に囲まれ一時は討死したかと思われるほど深入りして奮戦していました。

景季が『箙』に梅の枝を挿しているのを
見た平家の公達は、

♪吹く風を何いとひけむ梅の花 
散り来る時ぞ香はまさりける

(吹く風をなぜ嫌ったのでしょうか。
 梅の香は風に舞い散る時にこそ
   香りは優るものなのに)
という 
凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)の歌などを思い出し、『花えびら』と名づけ
「優なるかな」と感じいりました。

寿永3年(1184)2月7日(新暦の3月27日)
梅の盛りのことです。
この源平合戦の名場面は、
能や歌舞伎、浄瑠璃の題材に扱われてしだいに伝説化され、今日まで語り継がれています。

ここで『長門本平家物語』から、
景季の戦いぶりをご紹介しましょう。
「『生田森の合戦』で源太景季は戦場に駆け入る時は、旗を挙げ、『母衣』(ほろ)をかけて勇ましく戦い、退く時は、旗を巻き、
母衣を収めて見事な引き際を見せる。
この華麗な姿を繰り返し見せたので、
さすが武芸に秀でた東国武者と讃えられました。

また景季が、満開の梅の一枝を手折って
『箙』にさして駆け巡ると、
梅は風に吹かれてはらはらと散り、
   香りが漂い優美な風情。
これを見て敵も味方もしみじみ感じ入っている所に、年のころ30歳ばかりの男が、
景季の前に進み出て、
「本三位(ほんざんみ)中将殿
(清盛の五男重衡)のお使いでございます。
梅を挿した御方に歌一首申し上げます。」
と言って
♪こちなくも 見ゆるものかは 桜狩り
(不作法ではございますが、
桜狩りなどさせて戴きたいと思います。)
と『上の句』を詠み終えないうちに、

景季は馬から飛び降りて、
♪生捕り取らむ ためと思えば
(桜を取れるものなら、
どうぞ取ってご覧になって下さい。)
と『下の句』を返しました。」

景季のあっぱれな若武者ぶりと
雅をめでた平家方との
和歌のやり取りが語られ、
戦場に優雅ないろどりを添えています。

『母衣』とは、
馬に乗る時、鎧の後ろにつける吹流しのように長い布をたわませたもので、
馬を駆けると風をはらんでふくらみ、
後方からの流れ矢を防ぐ役目を果たします。

本足跡







『箙の梅』。。。。

なんとも風流な‼️。。。ラヴねこやんキラキラキラキラ

好きなお話しの‼️…ひとつである♪。。↑キラキラ






『箙』えびら



















江戸時代の泰平の人たちは、軍功ものとしてよりは、文学性に富んだ『箙の梅の故事』の
武士の風流性、精神性をもてはやした。
『人形浄瑠璃』や『歌舞伎狂言』にとりあげ、いまに伝えている。

ところが武功をあげた景季父子ではあったが、
これには後日談がある。
頼朝の強い信頼を得て側近にまでとりたてられたが、頼朝の死後、父の失脚と共に
反逆者の汚名をきせられ葬られてしまった。
三十八歳という男盛りであったのに・・・。
世の移り変わりか、人のなせる業か、
忠臣とまで言われた武士の哀れな最期であった。

本足跡









『生田の森』(源平合戦古戦場 ) 


「生田神社」

『社伝』では、神功(じんぐう)皇后が
朝鮮半島から大和への途次、
神戸沖で船が進まなくなったため、
神意を問う占により、航海の神、
稚日女尊(わかひるめのみこと)
を祀ったのが始まりとされ、
古くは『生田川』の上流、
『布引』の『砂子山』(いさごやま)
に祀られていましたが、
大洪水で流され、現在地に移されたと伝えられています。
その際、神地に繁らせていた松が役に立たず、
「松は水に弱い」とする神意をうけて、
現在でも松をいっさい使用せず、
正月には『門松』のかわりに
『杉盛』を『楼門』に飾ります。

本足跡





境内には、梶原源太景季(かげすえ)が
梅の枝を『箙』(矢を入れて背中に負う箱)に
挿して奮戦したという『えびらの梅』や
『梶原の井戸』が。。

平敦盛の遺児が父の墓を訪ねる際に
休息したという『敦盛の萩』や
 『弁慶の竹』など 
源平ゆかりの史跡があります。 

本足跡


『敦盛の萩』。。
『生田敦盛』。。。




「生田神社」
神戸市中央区下山手通1


『かぢはらの井』。

『梶原の井』
一名「かがみの井」とも云われ、
壽永の昔(八百年前)源平生田の森の合戦の折、梶原景季がこの井戸の水を汲んで
生田の神に武運を祈ったと伝えられる。
別説では景季がこの井の水を掬った時、
咲き盛った『箙の梅』の花影が映ったとの伝もある。


けふもまた  生田の神の 恵みかや
 
  ふたたび匂ふ 森の梅が香   

 景季。。筆


『梶原の井戸』





『梶原』。。。

梶原景季 ‼️。。。

梶原景時 ‼️…。。。



















えびらの梅♪。。。キラキラキラキラキラキラ









神戸 元町『えびら飴本舗』

。。。ラヴねこやんキラキラ笑キラキラキラキラであるかっ‼️♪









祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)。
「稚(わか)く瑞々しい日の女神」を意味し、
天照大神の幼名とも妹とも言われています。

『日本書紀』に
「稚日女尊が、清浄なる機殿で神服を織っていた所、素盞鳴尊(すさのをのみこと)がこれを見て、逆剥(さかはぎ)の斑駒(ぶちごま)を殿内に投げ込んだため、稚日女尊は大いに驚き給ひ」と見えています。
 また『日本書紀』の【神功皇后の巻】に、
『三韓外征』の帰途、神戸港で船が進まなくなったため神占を行った所、稚日女尊が現れ
「吾は活田長峡国(いくたのながさのくに)に居らむと海上五十狭茅(うなかみのいそさち)に命じて生田の地に祭らしめ」
との神託があったと記されています。

平安時代の法制書である
『新抄格勅符抄』
 (しんしょうきゃくちょくふしょう)
という書物に、
大同元年(806)に、
神社に奉仕する『封戸』(ふこ)である
『神戸』(かんべ)244戸が朝廷より与えられたと記されており、それが「こうべ」と変わり現在の『神戸』(こうべ)という地名の語源になったといわれているようです。





『二の鳥居』
(ここが神社の入口となっています)
をくぐると
左に「大海神社」、右に「松尾神社」が
鎮座しています。



『大海神社の由緒』。
「大海神社」に鎮座されている御祭神は、
猿田彦大神と申しあげ、『神戸の地主神』として最も古くこの地に祀られた神であります。

その昔文禄元年(1593)、
豊臣秀吉公の海外遠征の時、
海上安全を守らせ給う神として船内に
お祀りになったという故事が伝えられています。
 古来、庶民に大層尊崇を受け、とくに
漁人舵子楫取の信仰が厚く、『生田の浦』を往来する船舶は帆を巻きおろして遙かに敬意を表したといわれています。
水先案内の神・海上安全・海運繁昌に御加護のある神さま。




「松尾神社」
もう一方の末社、「松尾神社」の御祭神は
大山咋神(おおやまくひのかみ)。
松尾神社は『酒の神』として崇められているようで、以下『灘五郷酒造の発祥地』とする説明書きです。

 神功皇后の御外征以来、
毎年『三韓』より使節が来訪しております。
 その使節が入朝及び帰国するに当り朝廷では『敏馬浦』(脇浜の沖)で『新羅』から来朝した賓客に「生田神社」で醸造した『神酒』を振舞って慰労の宴を催しこれ等に賜るのが例でありました。
 この酒は『延喜式の玄番寮』によると
生田、廣田、長田(以上攝津国)
片岡(大和)の四社より稻五十束ずつを持ち寄り、稻束二百束とし生田神社の境内で
生田の社人に神酒を醸造させたもので、
この神酒で新羅の要人の宴を賜ったと記されております。
これが『灘五郷酒造の始め』と伝えられておりまして、『酒造王国の発祥の地』は
実は「生田神社」であると言われております。


 なお、「生田神社」は『縁結びの神』といわれていますが、「松尾神社」にある杉の木に、心を落ち着けて恋愛成就の願いごとをすると願いが叶うと言い伝えられているそうです。

本足跡



















稚日女尊 。。。

ワカヒルメ 。。。