梶原景時

『梶原氏』は鎌倉権五朗景正によって代表される『鎌倉氏の末裔』で、
鎌倉西部の『梶原郷』を本拠とした武士団であったといいます。
『石橋山合戦』では景時は
平家方の大庭景親の軍に属していましたが、このとき敗れて洞窟に身を隠している源頼朝公を見付け、味方をあざむいて頼朝公を救ったことはあまりにも有名です。

その後頼朝公の幕下に加わり、
侍所の所司となり、
「鶴岡八幡宮」の『造営奉行』を務めるなど、鎌倉における頼朝公の地盤固めに才覚を振るい、その後は『軍奉行』として内乱終結まで各地を転戦することとなります。

鎌倉幕府内では頼朝公の懐刀として
御家人の統制にあたりましたが、
その苛烈な職務姿勢のために御家人たちの
不興を買うこととなりました。
そして頼朝公という後ろ盾を失うと、
景時はたちまち弾劾を受けることとなりました。

正治元年(1199)、景時は
66人の御家人の連署によって指弾され、
鎌倉を追放されました。
鎌倉を追われた景時は一時『相模一宮』に退いていましたが、再起を期して西国へ向かいました。
しかしその途中『駿河国』狐崎で
在地武士の手にかかり一族もろとも殺害されました。

景時は義経との確執によって讒言で人を陥れる悪人的イメージが強いのですが、
才覚に溢れ、京風の教養を備えた人物であり、鎌倉幕府創業の功臣である事は疑いありません。 





 幕府から追放処分された景時は
一族33人を引きつれて鎌倉を後にした。
おそらく身の危険を感じ、都への逃亡をはかったのだろう。
しかし幕府の命を受けたこの地の御家人らに襲撃され、一族全員ここで滅んだ。
景時は享年60か。


頼朝を『石橋山』で助け、
『幕府侍所長官』として
身命を賭して仕えた景時だった。

頼朝が死去した時、景時の使命もすべて終わったというべきかもしれない。


本足跡


 









明治の記録によると、『逆櫓の松』は
樹齢1000年以上、航行の目印になっていたそうですから、かなり大きな松だったのでしょうね。



『逆櫓(さかろ)の松跡』 



 『平家物語』の【逆櫓の段】によれば、
1185年2月、源義経は、
平氏を討つため京都を出発し、
『摂津国』の渡辺、福島から、
四国の『八島(屋島)』を船で急襲しようとした。 

 義経軍は、船での戦いはあまり経験がなかったので、皆で評議していると、
参謀役の梶原景時が
「船を前後どちらの方角にも容易に動かせるように、船尾の櫓(オール)だけでなく
船首に櫓(逆櫓)をつけたらどうでしょう」
と提案した。

しかし義経は
「はじめから退却のことを考えていたのでは何もよいことがない。
船尾の櫓だけで戦おう」と述べた。

 結局『逆櫓』をつけることをせず、
夜に入って義経は出陣しようとした。
折からの強風を恐れてか、
梶原景時に気兼ねしてか、
それに従ったのは二百数艘のうちわずか5艘であったが、義経は勝利をおさめた。    
 その論争を行った場所が、一説によればこのあたりといわれている。
この地には、江戸時代の地誌
『摂津名所図会』によれば、
幹の形が蛇のような、樹齢千歳を越える松が生えていたという。
この松を逆櫓の松と呼んだ。 
 『逆櫓の松』は、近代に入るころには、
既に枯れてしまっていたらしい。
                     『大阪市教育委員会』本



大正15年4月福島史談会が『逆櫓の松跡趾』の碑を建てたが、昭和20年3 月13日の
大阪大空襲で行方不明になっていた。
昭和33年に見つかり、地元有志によって
昭和49年5月に現在地に移設された。

(『大阪市福島区HP』より)本










景時と義経の。。意見、対立 ‼️…
考え方の違い ‼️…。。。

景時と義経の。。確執 …。。。


ことごとく対立 ‼️…。。(苦笑)

ことごとく成功させ ‼️…
勝利をもたらす義経 ‼️。。(笑)





鎌倉への報告書 …。。。

景時の讒言 …。。。






















『梶原の二度駆け』‼️



『平家物語』・巻九・【二度の駆け】

『生田の森』にいた『大手軍』(範頼軍)
の先陣は、河原太郎・次郎の兄弟でしたが、
『平家軍』に討取られ、兄弟の討死を知った
侍大将梶原平三景時は
「彼らが討たれたのは、
『私市党』(河原兄弟が所属する集団)
の手落ちであるぞ。
『私市(きさいち)党』の面々が
河原兄弟に続いて攻め入らないからだ。
惜しい者たちを失った。
ちょうどよい潮時だ。攻めろ」と下知し、
息子3人伴い500余騎で、
平家の大軍の中へどっと押し寄せました。

次男景高が先駆けをしようと勇み、
しゃにむに駆けて行くので、景時は使者を送り
「後陣が続かぬうちに先駆けした者には
恩賞はないと思え。という
大将軍(範頼)の仰せであるぞ。」
と諌めますが
景高は、
♪もののふのとり伝えたる梓弓 

ひいては人のかへるものかは

(梓弓は一たび引いたら戻らぬように、
私も今さら引き返すことなどできません。)
と伝えて再び敵中に突進し、
大将軍の命令さえ聞こうとしません。

「景高討たすな。者ども続けや。」と景時、
嫡男源太景季、
三男三郎景家らが続いて突進しましたが、
大勢の敵に追詰められて、
500余騎あった手勢は50騎ほどに減らされ、散々に討たれ退いてみると、
どうしたことか嫡男源太の姿が見えません。
郎党どもに問うと
「源太殿は深入りしすぎて
お討たれになったのでは!
はるか遠くを見渡してもお姿が見えません。」
と答えるだけです。

景時は軍
(いくさの先駆けしようと思うのも息子のため、息子が討たれては生き長らえる価値はない。
と再び平家の大軍の中に死を覚悟して突し、
大音声をあげ、
「昔、八幡殿(八幡太郎義家)に仕え、
『後三年合戦』では、生年十六歳で先を駆け、弓手の目を射られながらも、手柄をたて
その名を後代に留めた鎌倉権五郎景政の末裔、
相模国の住人梶原平三景時であるぞ。
一人当千の強者ぞ。
我と思わん者はかかってこい。」
と名乗ります。

これを聞いた敵兵は、
「景時は東国に聞こえる強者ぞ。
それ討ちとれ。」と大軍に囲まれますが、
景時は捨て身で敵兵の中を、駆けまわり、
駆け破りつつ息子の行方を探します。

すると案の定、源太は馬を射られて徒立ちとなり、兜も打ち落とされて髪をふり乱し、
崖を背に敵5人に取り囲まれ、
ここを最後と戦っていました。
これを見るなり景時は急いで馬から降り
「景時ここにあり。
いかに源太、決して敵に後を見せるでないぞ。」と力づけ、
共に戦い敵 3人を討ち取り、2人に傷を負わせて
「弓矢とる身で大切なのは、
駆け入る時と退く時の潮時であるぞ。」と
言いながら、源太を連れ出し撤退します。
『梶原の二度の駆け』と呼ばれる奮戦は、
この時のことです。

⚔️


判官びいきの方には、評判が悪い景時も、
この戦いでは息子を気にかける父親の姿が描かれています。

本筆





『生田の森の二度の魁
   (さきがけ)』


梶原源太景季 ‼️。。
キラキラ花キラキラ花キラキラ

 けふもまた 生田の神の 恵みかや

 ふたたび匂う 森の梅か香 

筆

















歴史上の『梶原景時』は
すこぶる評判の悪い人間となっていて、
源頼朝と義経の兄弟愛を裂いた人物、
何人もの御家人を陥れた人物、
最後は鎌倉を追放され、討死した人物で
悪人の代表のような人物でした。 


景時と頼朝との信頼関係は
どのようにして生まれたのでしょうか?

1.【石橋山における頼朝救済】
 頼朝は治承4年(1180)に
『石橋山』で兵を挙げます。
この『石橋山の戦い』に敗れた頼朝を救ったのが梶原景時なのです。
梶原景時は平家側の人間ながら
祖先が源氏に仕えたこともあり源頼朝に好意を持っていたのです。

2.【景時の事務処理能力】
 景時は、事務処理能力に優れており、
頼朝に高く評価されておりました。

3.【政治路線の一致】
 東国の独立を目指す御家人集団と
京都の朝廷との均衡を図ろうとした頼朝側との路線対立があったと指摘しております。
景時は少なくとも頼朝と同じ政治路線であり、実行部隊の武将だったのです。
路線の違う上総介広常(かずさのすけひろつね)の暗殺は、頼朝の意を組んだものだったのです。

4.【和歌により交流】
 当時の上層階級・政治家にとって和歌は、最低限必要な教養であり、
景時・頼朝は共に歌人でもあったのです。


本足跡





『石橋山の戦い』。。。
【頼朝との出会い】。。。











梶原景時終焉の地・『梶原景時親子供養塔』
(梶原山公園・静岡市清水区)
 




鎌倉幕府御家人・梶原景時が討死。。

正治2年1月20日(1200年2月6日)、
梶原景時が没しました。
鎌倉幕府の御家人で源義経と対立し、
源頼朝に讒言した悪役のイメージで語られることが多い人物ですが、果たしてどうであったのでしょうか。






景時は保延6年(1140)頃、
『坂東八平氏』の流れを汲む梶原景清の息子として生まれました。
『梶原氏』はもともと源氏の家人でしたが、
『平治の乱』で源義朝が討たれた後は
平家に従います。

治承4年(1180)、
源頼朝が『伊豆』で挙兵すると、
景時は同族の大庭景親らとともに
『石橋山の合戦』で頼朝を破ります。
頼朝は山中に逃れ、これを追った景時は
その所在をつかみながら、あえて味方に知らせませんでした。
頼朝は景時を【命の恩人】として記憶します。

その後、再起した頼朝が『鎌倉』に入ると、
景時は降伏して養和元年(1181)に
頼朝と対面、晴れて御家人となりました。
42歳の時のことです。

以後、景時は能吏ぶりを頼朝に認められ、
ほどなく『侍所』の『所司』に抜擢されます。 
『侍所』とは防衛省と検察庁を合わせたような組織で、軍事政権である幕府の中枢を占める役所でした。
役所の長官を『別当』といいますが、
『別当』は多分に名義上のもので、実権を掌握しているのは『所司』であったといいます。

寿永2年(1183)、鎌倉政権においても飛びぬけた軍事力を持つ千葉上総介広常と双六をしていた景時は、突如、広常を討ち取りました。
これは強大な軍事力をもつ広常を警戒する
頼朝の意を受けたとも、景時が
【頼朝の心中を忖度】して行なったともいわれます。
いずれにせよ、この一件で頼朝は
さらに景時を信頼するようになりますが、
周囲の御家人たちは景時を嫌いました。

しかし同時に、頼朝の信頼を背景に
【目付役】としてにらみ、違反があれば
容赦なく糾弾する景時は、
御家人たちから恐れられる存在にもなっていきます。

そんな景時が本領を発揮するのは、
『平家攻め』の時でした。
景時は土肥実平とともに
『軍奉行』に任じられます。
いわば【源氏方の総指揮官】でした。
その『軍奉行』の上に、【頼朝の名代】として弟の範頼と義経がいました。 
軍事については誰もが『軍奉行』の指揮に従わねばならず、景時ら『軍奉行』は
頼朝に代わって軍全体に目を光らせることから「目代わり」と呼ばれます。
一方、義経らは【源氏の象徴】であり、
「身代わり」と呼ばれました。

頼朝は出陣にあたり、
『身代わり』は『目代わり』とよく相談し、互いに補い合って行動するように命じます。
そこで土肥実平は範頼と組み、比較的うまくいきましたが、景時は義経と組んで、ことごとく対立します。
その代表的なものが、
『屋島の合戦』での『逆櫓』でした。
『屋島』の平家軍を攻める際、景時は
船に逆櫓をつけて、自由に進退することを主張しますが、
義経は「退くための仕度など無用」と
これを一蹴。
強気の攻めで鮮やかな勝利を収め、
景時の鼻をへし折りました。
これを怨んだ景時は、以後、義経の悪口を
頼朝に書き送ったといわれます。
『梶原景時の讒言』です。

やがて頼朝と義経は不仲になり、
義経は悲劇的な最期を迎えました。
それは景時が【讒言】したからであると、
後世の義経贔屓から景時は徹底的に嫌われることになります。
しかし建久3年(1192)、景時は和田義盛に代わって『侍所別当』を就任し、
頼朝からいよいよ重んじられました。
武功だけでなく、【事務能力】にも長けていた点が買われたようです。

正治元年(1199)、頼朝が死去すると、
景時も力を失うかと思いきや、その権限は健在でした。
なぜなら景時は、2代将軍頼家の
乳母夫であったからです。
乳母夫とは文字通り、乳母の夫のことで、
特別政治秘書のような存在でした。
そんな折、頼朝の供養を行なった結城朝光が「忠臣は二君に仕えず」と発言したことに、
景時は「それは新将軍に仕えたくないという意味か」と謀叛の志としてとらえました。
結城朝光は御所の女房の阿波局からそのことを耳打ちされて仰天し、あわてて親友の三浦義村のもとに逃げると、反撃に出ます。
それが【景時への弾劾状】で、書面には
66人もの御家人が署名し、将軍頼家に差し出されました。

頼家から弾劾状を示された景時は、
意外にも一言も弁解せずに鎌倉を去って、
在所の『相模一宮』に帰ります。
翌正治2年(1200)、手勢を率いて上洛しようとしたところ、駿河で土地の御家人に討たれて、一族とともに最期を遂げました。
享年61。

景時の行動は一見不可解ですが、
結城朝光に耳打ちした女房・阿波局が、
実は頼家の弟・実朝の乳母であることを考えれば、見えてくるものがあります。
阿波局にすれば、実朝のために、
頼家を支える有力者・景時の追い落としを図ったのではないか。
そして景時はそれを見抜き、頼家に警告したものの、受け入れられなかった。
景時を信頼してくれていた頼朝とは全く違う主君であることに、景時は絶望したのかもしれません。
思えば義経への讒言も、頼朝のためを思ってのことで、頼朝はそんな景時の献身的な働きに応え続けました。

そして景時の危惧通り、頼家は悲劇的な末路をたどります。
 自暴自棄にも見える一族を連れての上洛は、もしかしたら鎌倉のあり方に絶望した景時が、新たな安住の地を求めての行動であったのかもしれません。





『景時終焉の地』。。
 
『清水』。
梶原景時が『清見ヶ関』
(現在の「清見寺」)を通りかかった時、
入江一族を中心とする地元の武士団に襲われます。
地元武士団には、鎌倉から
景時一族の殺害の命があらかじめ下っていたと思われます。
『清見ヶ関』で襲われた一行は、『狐ヶ崎』
(現在の静岡市曲金)まで逃げ延びますが、ここで待ち構えていた地元武士団に再び襲われます。
そして、最後に『夕日なし山』と呼ばれた
『牛ヶ山』の山頂で切腹したのであります。
今では、切腹した場所は
『梶原絶頂』と呼ばれ、
『牛ヶ山』は
『梶原山』と呼ばれております。

本足跡











【目付役】。。

【懐刀】。。

【軍奉行】。。

【讒言】。。












『梶原景時の変』


梶原景時には、
『石橋山の戦い』で敗れて逃亡する
源頼朝を助けたという伝説や、
『源義経との対立』、
『上総介広常の暗殺』
などの話が残されている。

和田義盛から『侍所別当』の職を奪ったこともあるという。

 武家政権を樹立させたい頼朝にとって景時は、なくてはならない者であった一方、
讒言によって多くの御家人が失脚していることから、御家人の間では恨まれていたところもあるらしい。





~【景時に対する弾劾状】~

 『吾妻鏡』によると、1199年
(正治元年)10月25日、
侍所では、亡き源頼朝のために
「一万遍の念仏」が唱えられていたが、
そのときに結城朝光から
「忠臣は二君に仕えず」という発言があった。

 梶原景時はその発言を
「現将軍頼家への謀叛」と捉えたのだという。

 そのことを朝光に告げたのは、
北条政子の妹・阿波局(保子)だった。

 驚いた朝光が三浦義村に相談すると、
和田義盛、畠山重忠、千葉常胤ら
御家人66名による【景時に対する弾劾状】が作成され、政所の別当大江広元に提出された。

広元は頼家への提出をためらっていたが、
和田義盛に強迫されて提出したといわれている。

この『弾劾状』に北条時政、義時父子の名は連ねられていない。
 しかし、事を大きくしたのは
時政の娘・阿波局の発言だった。




~【景時の最期】~

 11月12日、景時は、将軍頼家に呼ばれて事情を聴かれたようであるが、何も弁明もせず相模国一宮に下向した。

 一時、鎌倉に戻った景時だったが、
12月18日、評定の結果が出て、
鎌倉から追放されている。

 1200年(正治2年)1月20日、
景時は上洛するため一宮を発ったが、
駿河国『清見関』で在地武士との間で合戦となり、嫡子景季とともに討死にした。

 頼朝の死から
ちょうど一年後のことであった。

 『吾妻鏡』には、景時の上洛の理由を
武田有義を将軍にするためと書かれているが定かではない。


本足跡






















『鎌倉本體の武士』‼️

 さて、歌舞伎では
『梶原平三誉石切(ほまれのいしきり)』
という演目で梶原平三景時が
正義の主人公として取り扱われております。

梶原平三誉石切 (ほまれのいしきり)

通称「石切梶原(いしきりかじわら)」。
時代物の典型的な役柄が一堂に揃う
華やかな人気演目。
平家打倒のために挙兵した源頼朝が、
『石橋山の戦い』に敗れ姿をくらまし、
再び挙兵して大庭兄弟を滅ぼすまでを
描いた全五段の浄瑠璃
『三浦大助紅梅靮
 (みうらのおおすけこうばいたずな)』
の三段目が原作だが、現在では
ここだけが独立して上演されている。


  演じる俳優によって
『名橘誉石切
 (なもたちばなほまれのいしきり)』
『梶原平三試名剣
 (かじわらへいぞうためしのわざもの)』
など外題や演出が変わる場合もある。
また「へいぞう」を「へいざ」と読むこともある。


  梶原景時は歴史的には
源義経を讒言で窮地に追い込んだ悪人とされ、歌舞伎でも悪役として登場することがほとんどだが、
この演目では主人公として
見た目も美しい多くの見せ場がある。
中でも「石切梶原」の通称が示すとおり、
梶原が名刀の力も借りて石の手水鉢を
みごと真っ二つに斬るクライマックスは
最大の見せ場。

本筆















梶原 景時 ‼️。。。


腕っぷしが強く‼️…荒膚で無骨な
まさに‼️『坂東武者』!!
といった者が多い中。。。

この景時 ‼️のような
和歌の嗜みがある。。教養が高い。。
その事務処理能力。。
(計算をすることができる)
といったスペックは、非常に貴重な希少な
存在であった‼️。。








『鎌倉』