エペソ人への手紙

 5:22-33 JA1955


妻たる者よ。

主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。 

キリストが
教会のかしらであって

自らは、からだなる教会の救主であられるように

夫は妻のかしらである。

そして

教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべきである。

夫たる者よ。

キリストが教会を愛して
そのためにご自身をささげられたように、妻を愛しなさい。

キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより

言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、

また、しみも、しわも、
そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、

ご自分に迎えるためである。 

それと同じく、
夫も自分の妻を、自分のからだのように愛さねばならない。

自分の妻を愛する者は、自分自身を愛するのである。

自分自身を憎んだ者は、いまだかつて、ひとりもいない。

かつて、キリストが教会になさったようにして、おのれを育て養うのが常である。 


わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。 

「それゆえに、人は
父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」

この奥義は大きい。

それは、

キリストと
教会とをさしている。 

いずれにしても、

あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。

妻もまた夫を敬いなさい。




出版年:2010年




著者:エマソン・エグリッチ
1951年生まれ。フィートン大学とデュパク神学校より修士号、 ミシガン州立大学より博士号。


牧会を経て、1999年より 「ラブ アンドリスペクト・ミニストリーズ」代表。妻サラとの間に成人した1男2女がいる。

出版社: ファミリー・フォーラム・ジャパン


本の要点:

「妻は愛されたい、夫は尊敬されたい」。この基本的なニーズが満たされると、夫婦関係は円滑に回り、満たされないと「狂ったサイクル」に乗ってしまう。 

「夫は妻を愛し、妻は夫を尊敬する」

これができたら、「活性化サイクル」が回り始める。

単純ですが、これは聖書に基づく教えで、科学的裏付けがあり、その効果は絶大です。

本書の目的は、からまり合った夫婦間のコミュニケーションを解きほぐし、夫婦が本来の機能を回復できるように助けることです。基本のみことばは、エベソ人への手紙5章33節「あなたがたも、おのおの自分の妻を 自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい」です。

「夫は、キリストが教会のために命を捨てたように、妻を愛しなさい」

という説教を聞くことは
多くありますが、

「妻は、キリストに従うように無条件に夫を尊敬しなさい」と教えられることはめったにないのではないでしょうか。

しかし著者は、妻の愛と夫の尊敬の両面があって初めて、夫婦 の「狂ったサイクル」が止まり、「活性化サイクル」が動き出す、また、

結婚生活は
相手との問題ではなく、
あなたとキリストとの問題なのだ
(「報酬サイクル」)と主張しています。

(「翻訳者あとがき」より)




地元に  舞い戻った私に

旧友たちは 

とても親切にしてくれた。  


そのなかに


子供をつれて来て

我が家の周辺で  遊ばせがてらに

草とりをしてくれたり


おにぃちゃんやりくを

キャッチボールに

誘ってくれたりした友人がいた。


俺   母子家庭だったから

親子でキャッチボール

してみたかったんだよ。



彼は、私たちの引っ越しの日にも

なんの前触れもなく現れ


荷だしと 荷ほどきの

手伝いを申し出てくれた。



いくら  徒歩1分のところに

住んでいるからとはいえ


さすがに引っ越しの手伝いは

休日のパパ役割もあるだろうからと、やんわり断った。



共働きの奥さんだって

いろいろ忙しいと思うし


人の家の引っ越しを手伝う暇があるなら、自分の家や子どものことをしてほしいって思うと思うよ。


                     すると  彼は言った。




奥さんってうちの嫁のこと?

うちの嫁って…



そんな奴じゃねぇよ。



まこにも 何度も会っているから

知らない間柄でもないし


まこの子供も うちの娘と

遊んでくれたりもするし。


チャリとか 服とか

      お下がりももらってるし


引っ越しの時くらいは  

俺でも 役に立つはずだから

手伝いにいけって言うぞ。






みえさんのご主人には、
「単身赴任が長くて、家族で過ごす時間が少ないままに子どもが巣立っていった」

そんな悔恨があるらしいが、

みえさんは「そんなこと、べつにいいのにね」と私に言った。







進研ゼミからの回答!こんにちは。それではさっそく、質問について回答させていただきます。




質問の知徳合一における
「知」(知識)とは善悪を正しく判断できること、

「徳」とは人間の魂の善さのことです。

ソクラテスは、「人間の徳(アレテー)」とは魂をできるだけよいものにすること(魂への配慮)であると考えました。

また、自分の魂をすぐれたものにするためには、何が善であり何が悪であるか、何が美しくて何が醜いかについての正しい「知」(知識)が必要であるとし、この「知」を他の「知」より重視しました。

そして、ソクラテスは
魂をすぐれたものにするためには、



善悪についての
「知」(知識)が必要であるが、

善悪についての
「知」を実現すれば

魂はすぐれたものになり、
徳は実現される


と考えました。

このことを「知徳合一」とか「徳は知である」といいます。

つまり、
善悪を判断できる「知」を持つことが、「徳」を持つことだと考えたのです。

ソクラテスの知徳合一の立場で考えると、「悪い」ということを知りながら悪いことをする人はおらず、

悪いことをするのは
本当の意味で
それを「悪いこと」だと
知らないから

だということになります。


またソクラテスは、
善悪を判断する「知」を持つということは善く生きられること、すなわち

正しく徳を知っていれば
正しく行動することができる
(知行合一)とし、

こうした徳を持つことは
人間としての幸福につながる
(福徳一致)と考えました。






【アドバイス】
ソクラテスの思想について『チャレンジ』などを使って再確認しておきましょう。その時、解答を書き込むだけでなく、問題文をていねいに読んで、内容も確認していくと力がよりついていきます。






これからも『チャレンジ』をしっかり活用して学習を進めていってくださいね。










  思慮(知)と徳に縁のない者たち



にぎやかな宴やそれに類する享楽に

つねになじんでいる者たち


彼らはどうやら、

〈下〉へと運ばれてはまたふたたび〈中〉のところまで運ばれるというようにして、生涯を通じてそのあたりをさまよいつづけるもののようだ。


彼らはけっして、その領域を超え出て真実の〈上〉のほうを仰ぎ見たこともなければ、実際にそこまで運び上げられたこともなく、


また真の存在によって

ほんとうに満たされたこともなく、


確実で純粋な快楽を味わったこともない。


むしろ


家畜たちがするように、

いつも目を下に向けて


地面へ、

食卓へとかがみこみ、


餌をあさったり

交尾したりしながら

身を肥やしているのだ。




そして、そういったものを



他人より少しでも

多くかち取ろうとして

鉄の角や蹄で 

蹴り合い突き合いしては、


いつまでも

満たされることのない

欲望のために

互いに殺し合うのだ。



ほかでもない、いくら満たそうとしても、彼らはほんとうに存在するものによって自分を満たすのではないし、


また自己の内なる真に存在する部分、取り入れたものをしっかりともちこたえることのできる部分を満たすのでもない。


 

「申し分なく、ソクラテス」と

グラウコンは言った、


「あなたは神託を告げるような仕方で、大多数の人間の生き方を述べられましたね」

プラトン「国家」第九巻 10より