死ぬことを教える学校
日本が劣勢であると
気付いたからこそ
年末に戦地行きが決まり、3日間の休暇が与えられた。「母親の手を握ってから行きたい」と思ったが、帰るには片道19時間。あきらめた。
ドイツの学校教育は
1年掛けて徹底的に
ナチス・ドイツのやった事を教え込む。
僕は戦後生まれだが、僕の中学時代から既に社会科の歴史は現代史に辿り着く事なく終わった。
だから朝鮮半島を併合したのも中国を侵略して傀儡政権の満州国を建国したのも多くの日本人は詳しく知らない。
79年目の終戦記念日
(このネーミングにも疑問があるが)に
街でインタビューに答えた
2人の男性が印象的だった。
1人は24歳
「え!日本はアメリカと戦争したの?」
以前の僕なら激怒している。お前と同じ年齢の若者が死地へ追いやられたのに!
しかし今は
怒りもない。
教えなければ知らないのが当たり前だ。
学校もマスコミも国も、
もう済んだ事だと教えない。
もう1人は87歳
「今はもう
戦前と同じです」
我が錦鯉一族の中にも硫黄島で
戦死した人がいる。
遺骨さえ帰らなかった。
祖父母は在命中、絶対に靖国神社に行かなかった。
「硫黄島で玉砕した◯◯の魂は靖国にはない!この国の国民は生きても死んでからも国に利用される」
祖父は英霊と云う言葉を憎んだ。
綺麗事に事実はないと。
祖父は錦鯉一族では変り者と呼ばれた。
その祖父が僕を猫っ可愛がりした。
多分自分の血を受け継ぐのは僕だと確信したらしい。
そう祖母が教えてくれた。
だから
戦争の話は何度も聞かされた。
戦争は人間を馬鹿者にする。
世の中全体がそんな空気になれば個人は逆らえなくなる。
誰が戦争を始めたのか?
絶望的状況なのになぜ
戦争を継続したのか?
何のための戦争だったのか?
誰も説明しないし誰も責任を取らない。
東京、大阪、神戸、名古屋の空襲で無くなった市民は無駄死であり1円の補償もない。
裁判に訴えても
司法は国家と結託してるから
「戦争受認論」で退けられる。
戦争受認論とは
国民全体で起こした戦争だから
補償はありませんと云う理屈である。
そうか、
あの戦争は
国民が起こしたのか?
真珠湾攻撃を決めたのは
そこらの魚屋のオジサンか?
実は、山本は真珠湾攻撃の2か月前、親友に宛てた手紙の中で作戦を指揮することについて「個人の意見と正確に正反対の決意」と漏らしていたことが分かっています。しかし、海軍内では開戦を回避しようという人は少数で、山本の意見は通りませんでした。
アメリカとの戦争に否定的だった山本。しかし真珠湾攻撃以降、皮肉にも“国民の英雄”として熱狂的な支持を集めます。
荻島さん
「これだけ慕われていらしたということは、わかりました。でも、あの国葬は悲しいというよりも、非常に無理をしてみんなの気持ちを高揚させるための国葬というか、子どもながらに、なんか違うなっていう意識はありました。
戦意高揚だったでしょうね、
あの国葬は。
戦争に対する“悔しい、なんとしても勝たなければ”というのが国としてはあったんでしょうけど。
おじさまは国葬をしていただいて、本当に喜んでいらっしゃるのかなと思いました」
一方、戦時中、山本を激励する手紙を書いた青木さん。
終戦の年、故郷・長岡で空襲があり、自転車店を営んでいた自宅も、思い出の詰まった小学校も全焼。疎開先で終戦を迎えました。
今回、焼けずに残った山本への手紙を読み返した青木さん。あのころ自分たちが大人から教えられたことを、何の疑いも持たずに信じてしまい、一緒になって熱狂してしまっていたと振り返ります。
青木さん
「あとから考えれば、バカだったなと思います。
焼い弾はね、
この絵のように
簡単に消せるようなものじゃない。
バラバラバラともう雨あられと降ってくるんだから。
アメリカの、あんな量ではとても水で消すなんてものじゃないんですよね。
戦争が終わって負けて、ああ、本当はこうだったんだというのを理解して。
あのころは戦争反対なんていうことは、絶対に言ってはいけないし、これは正しい戦争だと教えられたわけでしょう。
国民がもう少しきちんと勉強して、世の中の動きや世界の動きをきちんと知っていなければいけないんだなと思いますね」
平常時からの「予防的なかかわり」が前提とされる点で共通する,
公衆衛生と自殺
個人の自由の尊重を
基本的な価値とみなす
現代社会において,
予防的介入が
無制限に許容されることはない。
本紙では,公衆衛生倫理を専門とする倫理学者の玉手氏,自殺や自殺予防を専門に研究する心理学者の末木氏による対談を企画。
ヘルスケアや自殺を考える際に生じる葛藤やもやもや感について,広く議論した。
末木 私は臨床心理学を専門に,自殺や自殺予防を中心とした研究を行っています。主軸は自殺予防におけるインターネット関連技術の活用にあり,NPO法人OVA(オーヴァ)の行っているインターネット・ゲートキーパーという検索連動型広告1)を用いた自殺の危機介入にかかわっています。
そうした研究・実践を通して,より良い危機介入の在り方を模索しているところです。
玉手 私はもともとは経済思想や政治思想を勉強していて,博士号を取得した後,縁があって7年ほど東京大学の医療倫理学教室でお世話になりました。
その頃から公衆衛生倫理の領域に携わるようになり,22年の末に『公衆衛生の倫理学――国家は健康にどこまで介入すべきか』(筑摩書房)2)を上梓したことから,その内容について医学界新聞でインタビュー3)を受けました。
自殺も公衆衛生倫理も比較的ニッチ※な領域ではありますが,両者をクロスさせて考えることで,新たな展望を得られればと思います。
※日常会話では、ニッチは「狭い市場」や「特定の専門領域」を指す際に使われます。例えば、「ニッチな趣味」や「ニッチ市場」といった形で用いられ、一般的には少数派や専門性の高いものを表現します。
末木 自殺の研究は心理学のフィールドであまりメジャーではありません。
1998年の自殺者数急増,2006年の自殺対策基本法成立を受けて自殺に関する研究に関心が集まったことは確かですが,研究・実践の面で中心的な役割を担ってきたのは心理学者ではなく,地域精神保健に携わる方々でした。
時代や地域によって変わる 自殺への価値観
玉手 そうした研究・実践において,自殺予防はどう扱われてきたのでしょうか。
末木
基本的には自殺を防ぐことを念頭に置いてあらゆる研究・実践が行われてきたと言っても過言ではないと思います。
自殺を予防するにはどうすればいいのか,との観点が常にベースにあるのです。
先に述べた自殺対策基本法は,国および地方公共団体が自殺対策を策定・実施する責務を有することを定めていますし,国民に対しては
「生きることの包括的な支援としての自殺対策の重要性に関する理解と関心を深めるよう努めるものとする」としています。
しかし,自殺は予防すべきだ・予防しなければならないとの考え方は人類の歴史において普遍的なものではなく,地域や時代によって大きく異なります。
玉手 自殺予防は所与の前提,自明の正義ではないということですね。
末木 はい。世界的に自殺対策への関心が高まったのは1990年代で,自殺対策国家戦略モデル作成のためのWHO専門家会議が開催されたのは96年です。
予防の対象とされる以前のキリスト教圏では,自殺は犯罪同然の罪深い行為とされていましたし,日本では江戸時代に近松門左衛門による浄瑠璃『曽根崎心中』の影響で恋愛心中が増加した際に心中禁止令が出され,心中既遂者の遺体や未遂者に対して処罰が行われました。
しかし,さらにさかのぼると,
ローマ帝国の国教とされる以前の初期キリスト教においては,自殺を罪とし罰を与えることはありませんでした。
こうして簡単に過去を振り返るだけでも,自殺予防に対する考え方に時間的・地域的普遍性がないことはおわかりいただけると思います。
数百年~数千年後の人類社会においても自殺が予防すべきものと考えられている保証は全くないわけです。
こうしたことから,
「自殺はそもそも
予防すべきなのか?」との
問いを,
常に持ち続けています。
武士の真心は「腹の中」にある。
記録に残る切腹は988(永延2)年、通称・袴垂(はかまだれ)と呼ばれた盗賊が捕らえられた際、自ら腹部を切り裂いたのが最古といわれる(『続故事談』)。
もっともこの話は伝説の類(たぐい)で、袴垂はそもそも武士ではないし、本当に腹を切ったかも判然としない。
では、実際にいつ始まったかというと、明確には分からないのだが、源平騒乱期の東北で起きた出来事が、武士社会に広がるきっかけだったのではないかと、山本博文・東京大学史料編纂所教授(故人)が仮説を立てている。
「源頼朝に追われて奥州に逃げた源義経が、ついに逃げきれないという時に、『武士は、どうやって死ぬのがいいだろうか』と、傍の者に聞いて」(『切腹と日本人』 学士会アーカイブスNo.845号)、腹を切った。
1189(文治5)年のことである。
それが鎌倉時代、武士の死に方として定着したのではないかと、山本氏はいう。
武士は戦いで死ぬことが名誉だった。
それがかなわないなら、せめて勇名を残すため、気力を振り絞って痛みに堪えた死に方を選ぶ。
また、戦いに負けたり、謀反を疑われたりした者が、腹の中の真心をあらいざらい見せ、「これで私の汚名を雪(そそ)いでください」という願いを込めたともいわれる。
腹を切ることが武士らしい最期と認められたのは、こうした理由からである。
形式的には、
自主的だった点も見逃せない。
実態は
追い詰められたり、権力者からの「死ね」という命令の下に切腹するのだが、
自ら選んだ形をとることによって、
名誉は保たれるのである。
戦国時代には、戦いに負けた武将が、自分の死と引き換えに家臣の命を救うという意義も加わった。
1582(天正10)年6月、秀吉から城中の者たちの命は取らないと約束を得た宗治は、小舟に乗って城から出て、腹を切った。
見事な最期だったと伝わる。そこから、「腹を切るならこうあるべし」と、後世の見本になったといわれる。
ここには、武士は身を挺して「責任を取る」との理念も見てとれる。
時代とともに切腹に至る理由も変化
「責任を取る」ために切腹
この風潮をオランダのキリスト教宣教師が目の当たりにし、「彼等は往々にして珍しき勇気を以て恐るべき方法により横に腹を割き、(人々は)彼等に対し最上の親切心を有する」と、国に報告した。
1669(寛文9)年にオランダで刊行された「モンタヌス日本誌」の一文だ。
キリスト教、特にカトリックでは自殺は禁じられていた。自害する者を称え、人々が親切に接するなど、当時のヨーロッパの人々が理解できるはずがなかった。
幕末の1868(慶応4)年にも、フランス人の水夫を殺害した罪で土佐藩士11人が切腹する。その場面を、フランス軍の幹部が見た。馬鹿げた風習としか思われなかった。
欧米は「ハラキリ」に批判的だった。
それに反論したのが新渡戸稲造だ。
著書『武士道』の中で、「武士が罪を償ひ、過ちを謝し、恥を免れ、友を贖(あがな)ひ、もしくは自己の誠実を証明する方法」と述べ、武士にとって名誉だったと強調した。
だが実際の切腹は、戦国時代も終わり平和な世になると、次第に変化していき、決して美徳や名誉ではなくなっていた。
江戸初期の切腹は、喧嘩(けんか)両成敗的な色彩を帯びていた。
例えば、異なる藩の藩士がもめ事を起こし、一方が抜刀して、相手を傷つけた場合は、双方同罪として、切腹を命じられた。
武士の清廉さも分別もなく相手を傷つけた者も、傷つけられるという恥を背負った者も、ともに死に値すると判断されたのである。
山本博文氏はこの時代の切腹を、「戦闘者としての武士という虚構を維持するためだった」という(『切腹 日本人の責任の取り方』 / 光文社新書)
このルールが曖昧になる。
部下が上役の悪口を言った。
上役はそのことを目付に訴えた。
すると、目付らは吟味のうえ、悪口を言った部下だけを切腹に処した。
1623(元和9)年、小十人組という江戸城の警護部隊で起きた出来事だ。
江戸城内には、登城した武士が身分に応じて下馬(馬から降りて)して歩かなければならないエリアがあったが、不用意に馬に乗ったまま通過した武士も切腹させられている。
つまり、身分秩序を維持するために切腹を利用するケースが増えていくのである。
命を絶った者、
死んだ者の責任を
追及しないという
倫理観がある
ので、
確かに汚名は免れたかもしれない。
しかし、
たかが悪口、たかが下馬したか否かで、死を申し渡される。
果たして
新戸部のいうような、