「君死にたもうことなかれ」 38年後
君しにたもうことなかれ
二十四までそだてしや
とは
結婚後
わずか10ヶ月で出征した
24歳の弟君へ
26歳姉である
与謝野晶子が
詠んだ歌
として有名であるが
その38年後、晶子は
「水軍の 大尉となりて
わが四郎
み軍(いくさ)にゆく たけく戦へ」
と詠んでいる。
私はこれを、晶子が母として育て
大人になった我が子の出征に対して
勇戦奮闘を願って激励する
悲しみと切なさを含む
気丈な母心の歌
と迷うことなくお見受けし
成人した
息子たちに向けた
自らの心情と
重ね合わせた
↓
が、それもつかのま
というような感想というか
想像を刺激するものであることを知り
また
「与謝野晶子ですらも、反戦の歌を歌えない世の中になった」とか
与謝野晶子は、「反共産!反戦争!反ソ連!」主義の活動家として伝わっており、実際政治的な話もしたようなんですが、彼女、あくまで「感覚が一般人」なんですよね。
歌人なので、表現は過激だったりしますが、心情的には等身大の人間って感じなのです。
と評されたり
「君死にたもうことなかれ」にはこんな節もあります。
という前置きとともに
与謝野晶子の実家が、堺の裕福な商家であったことをふまえて
堺の商人の旧家の主として
親の跡継ぎのお前(弟)だから
死なないでください。
裕福な商人の家の子が反共産になるのはまぁ自明の理。
旅順(日露戦争の激戦区)が
陥落しようと知ったこっちゃねえ、
商人の家にそんな掟はねえ!
反戦とか以前に、弟は家の大事な跡取りだから死ぬなと言ってるのです。
与謝野晶子は普通に「家の商売と可愛い弟」が大事な普通の人だったのです。
政治的な信念が云々というよりは、その時の率直な感情を歌にしているという感じ。
息子については、大尉だし手柄を立てて来いよ~という気持ちだったのかもしれません。
反戦についても、反ソ連主義についても、
一貫性がないと言われている
与謝野晶子ですが、
彼女は政治家ではなく普通の人間ですから。
と述べられたりしていることがわかった。
さらに
反戦派なのか
戦争擁護派なのか
反戦派なのか
「水軍の 大尉となりて
わが四郎
み軍(いくさ)にゆく たけく戦へ」
「俺と元妻は離婚してるんだから、
息子が言ってくれなきゃ俺は
学費の支払いができないんだ。」
「母親を、気遣えよ」
そう言った50代離婚男性Aさんの
胸の内を
離婚した親同士の
駆け引き
と勝手に疑ったアラフォーの私が
10年ほどの時を経て
私の目に次男のりくが
「子ども」には見えなくなったことで
Aさんはあのとき
すでに
「子どものいない父親」
だったのではないか。
ということに今更ながら
思いを馳せることができるようになって
Aさんの言わんとしたのだろうところが
変わった。(わかったとはいわない)
ということをブログに書いたことがあるが、そのことに「気がついた」ような気がしたとき、
おもわず、
そうコメントした。
母としての強さと
子への信頼と愛情が
心配を制御していたものと
振り返り改めて納得しながら
気づいたら
子どもが大人に
なっていた今の私が
あつかましくも
与謝野晶子の胸中に
思いを馳せると
弱りゆく自覚のなかで
与謝野晶子は
今の自分が
我が四男の
生還を待つ時ではない
ことを察し
生き抜き戦い抜くものと
我が四男を信じ抜き
我が四男の眩しい強さと若さに
光を当てて
激励しながら
その影で
静かに
命の炎を消しゆくところ
だったのではないかと
推し測るのである。