ブログ著者紹介


2人の息子が、すでに成人したシンママ大学首席卒業のイエローモンキー

現.バカ田大学理事



記事タイトル

「父という余分なもの〜サルに探る文明の起源」の考察




注,この記事は、現代日本の人類社会において最も余分なものであろう。





父という余分なもの

〜文庫版あとがきより


 

人間社会の根本となっている

共感や同情といった


感情は

知能の発達だけではなく

共同保育によって

高まった

とも考えられる。




父性とはなにか

云十年のフィールドワーク


磨きあげた嗅覚で

私がみつけた父親たちは

時々こう言う


「低学歴です」

「頭が悪いです」

「本は読みません」


彼らはイクメン


父性は直観

 




 

人々は便利な技術に頼って効率ばかりを追い求めるが、しかし人間社会は


むしろ 


頭でっかちで成長の遅い子どもを

たっぷりと時間をかけて育てるという


効率化とは

逆の方向でつくられた。


そこに、人間の豊かさと幸福が宿る。



 

古き良き時代に

戻ろうと

いうのではない



 

人間の進化を突き動かしてきた

舵を見失ってはいけない


ということを言いたいのである。





社会は進歩などしていない。

絶え間なく 変化しているだけだ。

ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803‐82)




20年前、私が若い母親だった

あの時に読んだあの本…


記憶なき脳 閃くハート


それは、絶対に読んでいないはずの

後付けのあとがき




究極のスピリチュアル


父性とは社会という海で

家庭という船の

舵を取る性





Emerson

『SELF RELIANCE 

自分を信じる力』



自己信頼の理由を追及していくと、生命の根源にたどり着く。

それは、天賦の才能や美徳や生命の本質であり、我々が「自発性」や「本能」と呼ぶものにほかならない。

後天的な教えはすべて教育であるのに対し、この基本的な知恵は「直観」と呼ばれる。

直観の深淵な力、分析では決して到達できない究極の事実の中に、万物に共通の根源がある。




20年経っても、私(著者)の考えが

少しも変わっていないのは驚きである。


ゴリラに励まされて私は

家庭をつくり、父親になり


最近は、ゴリラの目で人間社会を眺めるようになった。


座右の銘はと聞かれて

「ゴリラのような泰然自若」などと口走っている。


きっと、身も心もゴリラになってきたのだと思う。



↓そして、ここに至る




(解説)

ごつい思想

 密な調査に浅い知恵

鷲田清一


私たちには、「これは人間に固有なもの」と、勝手に思い込んでいるものが多すぎる。


たとえば、人間の性


他の動物には発情期というものがあるのに人間だけが年中発情していると決めつけたり、


人間における社会と文化の生成の原点に「近親相関の禁止」を見て


それらを前提にした

議論をしがちであるが


ゾウやライオンなど、決まった繁殖期をもたない動物などいくらでもいるし


ゴリラも近親者の交尾をうまく回避する習性をもつ。


そういう著者の指摘により

議論の軌道修正がなされる。



人間と他の動物との異なる点を巡るとき、私達は二足歩行で知性があって道具を使用し言語を運用し、遊びをする。


などを挙げてみたり


先に生まれたものが後に生まれたものの世話をするのは人間だけ。


と問うたりするが


この著者は


「う〜ん、私の

実見したところでは」と断り


亡き姉の骨を舐めに来る像とか

元ボスの臨終を悟ったゴリラの集団は、元ボスがかつてボスであった頃の様子を再現する様子を見せるという話をする。




先に生まれたものが

後に生まれたもののケアをし



この世に残るものたちが

死に逝くもののケアをする。


フィールドワーカーの

矜持ともいうべき

前置きは重い。





「すなわち、それらは人間固有のものではない。」


とは言い捨てず


「『ケアをするヒト』という視点から人類を規定するのはどうですか。」


と、その切り口を提起する。




限られた観察時間でデータをとり、論文を量産する「小回りのきく賢い学者」になるよりも「対象にずっと感動と愛着をもち続ける動物学者になりたい」と思ってきたという著者が、アフリカの熱帯雨林に足を踏み入れてかれこれ30年以上になる。



その著者は、『ゴリラ GORILLA』のなかで、次のように書いている。


 

ゴリラは、人間が、かつてもっていたはずの「高い許容力」と「思いがけない可塑性」をそなえた社会構造をもっている。


類人猿は「人類の過去を探る辞書のひとつ」なのであって、私たち人類が繰り返してきた衝突の悲しい歴史を〈共存〉の途へ切り換えるには、類人猿がたどった〈共存〉の別の途から、あるいはまた


「人類とは異なる自然の見方や利用法」から、うんと学ぶ必要がある。


われわれ人類はけっして

最善の方法で自然と接してきたわけではない


からである。



その著者が、本書では『父』という「子どもと生物学的にきずなをもたない男」の存在を問うている。


別の言い方をすれば、「家族が単独では成立し得ず、複数の家族が集まって機能を発揮する」


そのような人間家族のあり方、つまりは自然のつながりを超えて編成されるより高次の集団としての社会のあり方を、ゴリラの集団にその祖型を見るという形で問うているのである。


人類社会が「社会学的父親」を創造したのだとすれば、「男が父親になるためにはまず女から持続的な配偶関係を結ぶ相手として選ばれ、次にその母親を通じて子どもたちから選ばれるという二重の選択を経なければならなかったはずだ」


ところがその


「二重の選択」が今、自明のこととして成り立たなくなっている。


そんな感触が著者にはあるらしい。


「家族の連帯を通した社会のあり方が現代の要請に合わなくなった」ということなのだろうか。


そう自問する著者は、

「父親を捨て家族を解体することは、人類の歩みが始まって以来の文化と決別するということだと私は思う」


とまで書いている。


なんとも、豪快な議論である。