社会人デビュー後 

初帰省した 長男22歳  

よく帰省する おば2 アラフォー上限

ビール🍺で乾杯 花咲く談義




中学ではなぁ 俺

数学は「授業聞かんでいい」って

言われてたんや。

  

「必要なところだけ声をかけるから、その時にだけ聞けばいい」って。




みんなが家でやってくるドリルを


俺だけ、授業中に

やっててえぇことになってたんや。





そのことと、塾の講習会とやらに行くのをやめたのは たぶん、そんなに関係ないなぁ。





今でも、よぅわからんからなぁ。

なんで、あのとき本部長に小突かれたんか😆


もともと、行きたくなかったし

意味もなかったし


むしろ

行かないキッカケになったから 互いに

良かったのかもしれんとは思う🤣


塾に通っとけば、高校受験に役立ったかもしれんとは、べつにおもわん。


やらなかったことの結果なんて

誰も評価できんやろ。



大学入試センター前に行った、かわいい名前の大手塾の講習は良かったけどなぁ。



行ったから、大学受かったとか

行かなかったから、高校スライドしたとか


そういうんじゃなく


わかるってことがわかるとか

人の話に惹き込まれるとか


この人すごいって思うとか


そういう経験ができたことが

良かったと思う。






大学に行ったら 俺は

べつに数学が得意なわけじゃなかったってことに、気づいたけどな🤣


やっぱ、理学部はすげぇわぁ。





その気づきは、どうなのかなぁ。


長男くんが15歳のときに私が渡した

おば2さんのノートに…。





おば2の突然の妄想と長男の現実が

異次元で交差しながら


🚪🧚長音記号2長音記号2長音記号2長音記号2


ふたりは

「君たちはどう生きるか」

コペル君の世界に入っていった。








のおば2さんの心のノートより



得意というのは、人との比較における評価的感覚のことではないのだよ。


「得意」なことをしていたとき、君の心には、満足感や達成感のような心の高揚があったのではないだろうか。


そんな心持ちを味わえたことがあるのだとしたら、君にとってそれは、やはり「得意」なことであると自負していいのだと私は思う。



だって、〇△大学の理学部と比較して

数学が得意かどうかを語ることが

真なのだとしたら


世間で「数学が得意」と言える人は、激減してしまうよ。


それは、「数学」という学びの分野にいる人にとっても、望むところではないように思うし



同じ理屈で考えるなら


オリンピックを見てしまった一般人には、得意なスポーツがなくなってしまうということにもなりかねないよ。






😅大学のときの先輩が、似通った話

しとったなぁ。



この大学では、「すごい大人」に出会う機会が多い。


芸能事務所でもないのに、しょっちゅう新聞やテレビに出ている大人が、俺たちの周りにはいる。



学生でも、もちろん「すごい奴」がいるし、学部や学科による優劣が話題になることもある。


裏を返せば「俺にはできない」「俺にはできなかった」そう感じることも多い。


それはべつに、感じてはならないことでも、口にすることを慎まなければならないことでもない。



ただ、その感じ方は、この大学の中だけで通用するものでもあるんや。


この大学を受験して合格したってことはなぁ



それぞれの目指した学問分野の受験者の中では、学力上位X%に入っていたということや。


その事実をどうとらえるかは、

人それぞれやけどな。


ここの集合体は

世間一般の平均的な集まりではないんや。


学生のうちは、思うように感じたことをそのまま語りあったらいい。


今、仲間と過ごす時間が、自分らを作っていくんやと思うから。





ただ、


大学から外に出て


世間が広がれば広がるほどに、その感覚を共有でき共感しあえる人間の比率は、少なくなるかもしれないってことでもあるんや。



こんなふうに、

長男が回想した先輩の言は、


まるで

コペル君の「おじさんのノート」のようだった。




昭和12年の「大学卒業したての法学士のおじさん」レベルの若者が、現今令和にも存在する証



それが

おじさんのノートまこ的改変バージョン

「先輩のノートである。


先輩のノート


長男君へ



自分の人間としての値打ちに本当の自信をもっている人だったら、環境や境遇がどうあっても、落ち着いていられるはずなんだ。


自分のおかれたところで、自分と人を比較して引け目を感じているうちは、まだまだ人間としてダメなんだ。



だけど、


自分にはないものを持つ人が

たくさんいるという状況は

↑(昭和12年原文では 貧しい暮らしをしている人)


引け目を感じる場面が多いということでもある。


 


だから、自分自身にむかっては、それだけの心構えを持っていなければならないにしろ、


かといって、引け目を感じたり傷つきやすい人の心をかえりみないでいいとはいえないし、


「境遇に負けるな」と言う資格は、我々誰にもないのだよ。

 


少なくとも厳しい境遇に長い間実際に身をおいて、その辛さや苦しさを嘗め尽くした人が


そのうえでなお、自信を失わず、堂々と世の中をわたるようになれる、その日まではね。




自分よりも厳しい境遇にある人たちを見下げる心持ちなんか、今の君にはさらさらないことを、僕は知っている。


しかし、その心持ちを大人になっても持ち続けることが、どんなに大切なことであるか、君はまだわかっていない。


このことは、君が世の中のことを、正しく知るほどに、ますます大切になってくることなんだ。


なぜなら、世間には

僕たちよりも、ずっと厳しい境遇に生きている人がたくさんいて


それが、「社会の課題だから」なのだよ。