嬉しいお知らせがあります。

「昭和初期の宝塚歌劇団とその時代(31)戦争で亡くなったタカラジェンヌ」でご紹介した園井恵子さんが、宝塚創立105周年となる今年4月に「宝塚歌劇の殿堂」の105人目の顕彰対象者に新たに選ばれました。

 

 

以前のブログでご紹介したように、葦原邦子さんは園井さんの死を受けて、戦後、各地で反戦活動をなさっておられました。これを始められた経緯が『女の自叙伝 すみれ咲き愛みちて』(葦原邦子、1988年、婦人画報社)に記述されていましたのでご紹介いたします。

 

私のライフワーク、反戦の歌

もう一つ、私の大事にしているものに、原爆と戦争反対の歌を歌っていく仕事があります。私自身は、戦争では子どもたちを抱えて苦労しましたし、宝塚でよく共演した園井恵子さんが、その後新劇に入り、移動演劇の桜隊というのに編入され、ちょうど広島で公演する日の朝、原爆の犠牲になったんです。だから、戦争に対する憎しみは人一倍強くて、子どもたちや孫たちのためにも二度と戦争などあってほしくないと願っているからなのです。

 

(中略)

 

私は、園井さんの死がどうしても納得できないまま、広島へ行く機会があったとき、原爆資料館に行き、さらに多くの原爆の悲惨さをもの語るデータに触れました。

そのとき、初めて、栗原貞子さんというかたの詩に出合ったんです。女の人でないと感じとれないような詩でね。原爆で崩れた地下室の暗闇の中、逃げこんだ人の呻き声とか、血や汗の臭いの中で、子どもが生まれるという、死と生の不思議な対比、死の臭いの漂う阿鼻叫喚が一方にあって、なおかっ、人々が新しい生命の誕生に向かって力を合わせていく。そして結局は、死より生の強さを謳いあげ、

「生ましめんかな生ましめんかな 己が命捨つとも」 

で終わるのです。

 

私は、これを読んだとき、感動をおさえきれませんでした。そしてどうしてもこれを歌いたいと思ったんです。園井さんのためにも、それから子や孫たちや、すべての人のためにも、子どもを産み育てているし、戦争も体験したし、さいわい歌を歌うことができるのだから。

栗原さんにお願いすると、喜んで承諾してくれました。作曲は、『きけわだつみのこえ』を作曲したかた(注:福島雄次郎、1973年)にお願いしました。>

 

注1)19737月、原爆被爆者のためのチャリティー・コ ート第1回を開き、以後毎年1回 開催。

 

注2)「宝塚歌劇の殿堂」は宝塚歌劇創立100周年を記念して、2014年に兵庫・宝塚大劇場内にオープンしたスペースで、劇団員64名、劇団関係者36名、合計100名が顕彰されまている。(注:2016年に4名が追加されている)

写真は小夜福子さん。本文とは関係ありません。

 

「丸帽を膝の上にキチンとのせ、背筋を伸ばして座っている姿は、とてもステキで憧れだった」

という母の言葉を思い出したのが、この連載ブログを始めるきっかけであった。

 

その劇場って何処なんだろうか? 

宝塚歌劇団の資料があるから・・・東京宝塚劇場?・・・

でも、コアファンは女性だろうし・・・

 

答えは意外と簡単に、葦原邦子さんの著書の中に見つけられました。

 

<東京の秋の舞台で面白いのは早慶戦のある土曜日の昼だけががらがらなのです。その日は親しいファンやお嬢さんたちが大勢で客席に陣取って応援してくれます。>

           (葦原邦子『我が青春の宝塚』)

 

当時は、熱烈な男性ファンもいたし、歌舞伎界の若き御曹司のお歴々が宝塚ファンであったそうです。

 

 

さて、宝塚少女歌劇団の資料を調べて始めて驚いた。

 

昭和1211月が最も古いものだが、最初の演目が『軍国レビュー「南京爆撃隊」』とある。

次の昭和131月の公演演目には、「挙国一致・堅忍持久」の文字がある。また、公演前には、生徒全員による「国民歌」の合唱が行われている。

昭和1311月公演では26日、27日の土日の公演が防空演習のためマチネーのみとなっている。

 

真珠湾攻撃があった4年も前のことを、私は何も知らないことに気づかされたのです。

いや、明治維新以降のことをと言った方が良いのだろう。

 

それから、宝塚の資料の謎解きが始まった・・・

昭和史を勉強しながら・・・。

その結果として出来たのが、32回分のブログです。

あとがきを書き終え「ようやく宿題を終えた」気分になり、正直いってホットしています。

 

この先、戦争の無い状況で、華やかな宝塚歌劇が観られることを切に願っております。          ー完ー

 

 

写真は小夜福子さん。

戦争で犠牲になったタカラジェンヌが 3名おられます。

現役生では 清美好子さん(昭和18年入団)、

卒業生では 園井恵子さん(昭和4年〜17年)と糸井しだれさん(昭和6年〜20年)。

 

園井恵子さん

 

 

糸井しだれさん

 

清美好子さんの画像はありませんでした。

 

三人のことを橋本雅夫氏は、『宝塚歌劇今昔物語―タカラジェンヌよ永遠にー』(小学館、2002年)で次のように記しています。

 

<清美さんはすらりとした心身の男役で、たまたま盲腸炎になり帰京して入院中、昭和20310日早暁の東京大空襲で焼夷弾を受けた。

(中略)

園井さんは、移動演劇隊の桜隊に属して巡演中、広島で原爆に遭い、神戸までたどり着いたが、昭和20821日に死去。

糸井さんは、結婚が決まり退団、婚約者のいた三重県津市で20年7月24日に1トン爆弾に直撃された。>

 

 

園井恵子さんの死について、葦原邦子さんは著書『我が青春の宝塚歌劇団』で次ぎのように述べています。

 

<戦争の断末魔の日。あの広島に、ちょうど演劇隊員として新劇人として行きあわせた園井さんが、原子爆弾の星組苦熱の光に打たれたのです。それでも、若い隊員と二人だけで辛苦の果てに逃げ延びてたどり着いたのは、神戸の、宝塚時代からの親しいお宅でした。「ママ、助かったのよ!」と喜びの声をあげたのも束の間、やがて髪は抜けはじめ、内臓出血の症状と高熱にうかされながらもまだ生きることを夢見つつ、無残にこの世を去ったのです。

(中略)

その時のことをつぶさにかかれた本をよんだとき、いつか見た広島の原爆資料館が目に浮かびました。それ以来、折りにふれて戦争を拒否し平和を願う心を歌いつづけようと決心して来たのは、あの舞台で抱き合ったときの園井さんの胸あたたかさが忘れられなかったからでした。>

(出典:『我が青春の宝塚』葦原邦子、善本社、1979年)

 

注)「あの舞台」とは、昭和93月星組公演の『アルルの女』で、園井さんは葦原さんのお母さん役を演じた。

 

 

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彼女等が悲惨な最期をとげた「空襲」と「原爆」について、考えて見たいと思います。

 

1.東京大空襲はたんなる無差別爆撃ではなかった。

 

 >>> 北風を利用した周到な計画された爆撃だった。

 

<昭和201月に第21爆撃兵司令官に就任したカーチス・ルメイ少将は夜間に超低空で侵入し、工場地帯や住宅密集地を焼夷弾によって無差別絨毯爆撃するように命令した。最初の試みが東京で行われた。 まず周囲を爆撃して巨大な火の壁を造り、住民を袋のねずみにしてからM69,エレクトロン焼夷弾、黄燐弾などを集中投下していく方法が採られた。

(中略)

日本軍もああいう火攻めでくるとは考えていなかったでしょう。北風が吹いていましたから、南、東、西の巡で攻撃を加え、いちばん終いに北側を燃やして、真ん中で人間を蒸し焼きにする。最初からそういう作戦を練っていたとするならば、まさにに無差別爆撃です>

半藤一利、秦郁彦、保阪正康、井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社、2010年。

 

「無差別爆撃」とは、「軍関係施設だけでなく民間施設にもおこなう爆撃」が定義であろう。さすれば上記の東京大空襲は、大量虐殺爆撃だったと言う方が正しいのではないだろうか。

 

>>>さらに、信じられない話しがある。

 

1964年に日本政府はカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与している」

航空自衛隊の発展に貢献したのが理由であるという。

しかし、東京で10万人を殺戮し、日本全国では30万人以上の方々が亡くなった、昭和20年の都市空爆を指揮したのが彼なのである。

 

さらに朝鮮戦争でも、ベトナムでも、無慈悲な絨毯爆撃を行いつづけた。

キューバ危機の時には「核戦争は避けられず、勝算があるならば、このチャンスを逃がすべきでははない」と空爆を主張した。しかしそこには100発の戦術核兵器が存在した。それをアメリカが知ったのはなんと30年後だった。

 

 

2.広島・長崎の原爆投下が戦争を終わらせたのか?  

 

>>>アメリカの大統領いわく、

<トルーマンは「もし原爆を投下せず日本本土への上陸作戦が実施されていたら多くのアメリカ人が犠牲になったはず」と言ったが、「多くのアメリカ人具体的な数は年々増え続けた。爆弾直後は数千人と言っていたのが、10年後には50万人に跳ね上がっていた。50年近く経った1991年、ジョージ・HW・ブッシュ大統領は、「トルーマン氏の勇気ある、また冷静な決断が何百万人ものアメリカ人の命を救った」と賞賛している。> 

オリバー・ストーン&ピーター・カズニック『オリバー・ストーンの「アメリカ史」講義』早川書房、2016

 

 

>>>しかし日本の首脳に終戦を決意させたのは、ソ連の参戦だった。

 

<スターリンはルーズベルトとの約束を守り、すでに150万人の兵力を極東へと送り込んでいた。89日現地時間午前1時に、ソ連は三方面から満州に侵攻した。戦いは凄惨なものとなった。日本の関東軍はほぼ全滅し、最大で70万人の日本人が死傷、あるいは捕虜なった。>

オリバー・ストーン&ピーター・カズニック『オリバー・ストーンの「アメリカ史」講義』早川書房、2016

 

終戦時の内閣総理大臣であった鈴木貫太郎は当時のことを次のように記述している。

<緊急を要する書類を余の机上に広げたのである。

それは89日午前4時短波放送によってソ連の対日宣戦布告がなされたということだった。

余は瞬間、満ソ国境を堰を切ったように侵攻して来る戦車群が想像され、満州の守備兵が、本土作戦の都合上その重要な部分を内地に移動していることも考えた。

このままソ連の侵攻を迎えたならば、二ヶ月とは持ち耐え得ないであろうことも考えられた。

ついに終戦の最後的瞬間がきたなと、余は我と我が胸に語りきかせ、傍らの迫水君にたいして静かに、「いよいよ来るものが来ましたね」と語ったのである。>

『鈴木貫太郎自伝』鈴木貫太郎著、鈴木一編、1986年、時事通信社、『昭和史探索・6』 半藤一利編著、筑摩書房、2007年に収録。

 

 

ーーー昭和史を人的被害でまとめてみるーーーーーーーーー

 

全戦死者数:310万人以上(病死・餓死者は60%以上)

その内、

 沖縄戦:兵士 約11万人(中学生・女学生の義勇兵を

              含む)

     民間人 約10万人

 特攻隊員死者:約5千人

 

本土空襲による死者:30万人以上

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