戦争で犠牲になったタカラジェンヌが 3名おられます。
現役生では 清美好子さん(昭和18年入団)、
卒業生では 園井恵子さん(昭和4年〜17年)と糸井しだれさん(昭和6年〜20年)。
園井恵子さん
糸井しだれさん
清美好子さんの画像はありませんでした。
三人のことを橋本雅夫氏は、『宝塚歌劇今昔物語―タカラジェンヌよ永遠にー』(小学館、2002年)で次のように記しています。
<清美さんはすらりとした心身の男役で、たまたま盲腸炎になり帰京して入院中、昭和20年3月10日早暁の東京大空襲で焼夷弾を受けた。
(中略)
園井さんは、移動演劇隊の桜隊に属して巡演中、広島で原爆に遭い、神戸までたどり着いたが、昭和20年8月21日に死去。
糸井さんは、結婚が決まり退団、婚約者のいた三重県津市で20年7月24日に1トン爆弾に直撃された。>
園井恵子さんの死について、葦原邦子さんは著書『我が青春の宝塚歌劇団』で次ぎのように述べています。
<戦争の断末魔の日。あの広島に、ちょうど演劇隊員として新劇人として行きあわせた園井さんが、原子爆弾の星組苦熱の光に打たれたのです。それでも、若い隊員と二人だけで辛苦の果てに逃げ延びてたどり着いたのは、神戸の、宝塚時代からの親しいお宅でした。「ママ、助かったのよ!」と喜びの声をあげたのも束の間、やがて髪は抜けはじめ、内臓出血の症状と高熱にうかされながらもまだ生きることを夢見つつ、無残にこの世を去ったのです。
(中略)
その時のことをつぶさにかかれた本をよんだとき、いつか見た広島の原爆資料館が目に浮かびました。それ以来、折りにふれて戦争を拒否し平和を願う心を歌いつづけようと決心して来たのは、あの舞台で抱き合ったときの園井さんの胸あたたかさが忘れられなかったからでした。>
(出典:『我が青春の宝塚』葦原邦子、善本社、1979年)
注)「あの舞台」とは、昭和9年3月星組公演の『アルルの女』で、園井さんは葦原さんのお母さん役を演じた。
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彼女等が悲惨な最期をとげた「空襲」と「原爆」について、考えて見たいと思います。
1.東京大空襲はたんなる無差別爆撃ではなかった。
>>> 北風を利用した周到な計画された爆撃だった。
<昭和20年1月に第21爆撃兵司令官に就任したカーチス・ルメイ少将は夜間に超低空で侵入し、工場地帯や住宅密集地を焼夷弾によって無差別絨毯爆撃するように命令した。最初の試みが東京で行われた。 まず周囲を爆撃して巨大な火の壁を造り、住民を袋のねずみにしてからM69,エレクトロン焼夷弾、黄燐弾などを集中投下していく方法が採られた。
(中略)
日本軍もああいう火攻めでくるとは考えていなかったでしょう。北風が吹いていましたから、南、東、西の巡で攻撃を加え、いちばん終いに北側を燃やして、真ん中で人間を蒸し焼きにする。最初からそういう作戦を練っていたとするならば、まさにに無差別爆撃です>
半藤一利、秦郁彦、保阪正康、井上亮『「BC級裁判」を読む』日本経済新聞社、2010年。
「無差別爆撃」とは、「軍関係施設だけでなく民間施設にもおこなう爆撃」が定義であろう。さすれば上記の東京大空襲は、大量虐殺爆撃だったと言う方が正しいのではないだろうか。
>>>さらに、信じられない話しがある。
「1964年に日本政府はカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与している」
航空自衛隊の発展に貢献したのが理由であるという。
しかし、東京で10万人を殺戮し、日本全国では30万人以上の方々が亡くなった、昭和20年の都市空爆を指揮したのが彼なのである。
さらに朝鮮戦争でも、ベトナムでも、無慈悲な絨毯爆撃を行いつづけた。
キューバ危機の時には「核戦争は避けられず、勝算があるならば、このチャンスを逃がすべきでははない」と空爆を主張した。しかしそこには100発の戦術核兵器が存在した。それをアメリカが知ったのはなんと30年後だった。
2.広島・長崎の原爆投下が戦争を終わらせたのか?
>>>アメリカの大統領いわく、
<トルーマンは「もし原爆を投下せず日本本土への上陸作戦が実施されていたら多くのアメリカ人が犠牲になったはず」と言ったが、「多くのアメリカ人具体的な数は年々増え続けた。爆弾直後は数千人と言っていたのが、10年後には50万人に跳ね上がっていた。50年近く経った1991年、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、「トルーマン氏の勇気ある、また冷静な決断が何百万人ものアメリカ人の命を救った」と賞賛している。>
オリバー・ストーン&ピーター・カズニック『オリバー・ストーンの「アメリカ史」講義』早川書房、2016年
>>>しかし日本の首脳に終戦を決意させたのは、ソ連の参戦だった。
<スターリンはルーズベルトとの約束を守り、すでに150万人の兵力を極東へと送り込んでいた。8月9日現地時間午前1時に、ソ連は三方面から満州に侵攻した。戦いは凄惨なものとなった。日本の関東軍はほぼ全滅し、最大で70万人の日本人が死傷、あるいは捕虜なった。>
オリバー・ストーン&ピーター・カズニック『オリバー・ストーンの「アメリカ史」講義』早川書房、2016年
終戦時の内閣総理大臣であった鈴木貫太郎は当時のことを次のように記述している。
<緊急を要する書類を余の机上に広げたのである。
それは8月9日午前4時短波放送によってソ連の対日宣戦布告がなされたということだった。
余は瞬間、満ソ国境を堰を切ったように侵攻して来る戦車群が想像され、満州の守備兵が、本土作戦の都合上その重要な部分を内地に移動していることも考えた。
このままソ連の侵攻を迎えたならば、二ヶ月とは持ち耐え得ないであろうことも考えられた。
ついに終戦の最後的瞬間がきたなと、余は我と我が胸に語りきかせ、傍らの迫水君にたいして静かに、「いよいよ来るものが来ましたね」と語ったのである。>
『鈴木貫太郎自伝』鈴木貫太郎著、鈴木一編、1986年、時事通信社、『昭和史探索・6』 半藤一利編著、筑摩書房、2007年に収録。
ーーー昭和史を人的被害でまとめてみるーーーーーーーーー
全戦死者数:310万人以上(病死・餓死者は60%以上)
その内、
沖縄戦:兵士 約11万人(中学生・女学生の義勇兵を
含む)
民間人 約10万人
特攻隊員死者:約5千人
本土空襲による死者:30万人以上
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