終戦までの出来事をを振り返ってみます。
お土産のポストカード。誰でしょうか?
昭和15年
・宝塚歌劇音楽奉仕隊を結成。翌月、唱舞奉仕隊と改称。
病院や工場を慰問した。
・「宝塚少女歌劇団」を「宝塚歌劇団」と改称。
昭和17年
・第一回満州公演(9月から10月)天津乙女他44名。
満州国建国十周年 慶祝国民親善使節団
満州各地と朝鮮半島の京城で公演。
- 昭和18年
- ・第2回満州公演(5月から7月)花里いさ子他43名
昭和19年
・宝塚大劇場と東京宝塚劇場に閉鎖命令(3月1日)
(「決戦非常措置要項」により19劇場に閉鎖命令が出る)
東京宝塚劇場は花組公演の舞台稽古を中止。
雪組宝塚大劇場公演は打ち切りとなり、3月3日、4日だ
けの公演となった。
この時の様子を、春日野八千代さんは『白き薔薇の抄』
で次のように記しています。
<宝塚大劇場閉鎖のニュースを聞いたのは19年3月1日のことだった。
(中略)
第一次決戦非常措置令とかで、大都市の高級娯楽場が閉鎖されるというウワサは耳にしていたものの、「高級娯楽」とは歌舞伎などのことで、宝塚は入場料も安いし、大衆娯楽だから大丈夫——だれでもがそうしんじていただけにショックも大きかった。
東京宝塚劇場は二日の初日を前に、舞台げいこをしただけで閉鎖。宝塚大劇場は四日かぎりということになったものの、二日は節電のやめ休演が決まっていたから、残るは三、四日だけ。この最後の二日間には、歌劇の灯が消えると聞いたファンがどっと詰めかけ、想像を絶する人でだった。
早朝から出来た観客の列は、切符売り場から延々と続いて宝塚新橋を渡り、武庫川の向こう岸までつながっているのである。
場内では汗だくの巡査がサーベルを抜いて整理にあたるのに、すき間なく埋まった観客は動きようもない。開演を遅らせてようやく始まった舞台に立つと、これだけの人が宝塚を愛してくれている、その感動が胸いっぱいに広がってくるのだった。
コーラスボックスの隅で、先輩の角田芦子さんがないてられたのも深く印象に残っているが、どうしたわけか、私は泣く気になれないのである。
これが最後なんてことがあるものか“幕はもう一度上がる。そう信じていたから・・・。>
・第3回満州公演(9月から12月)初音麗子他24名
この時の様子を、春日野八千代さんは次のように回想しています。
<第三回満州(元中国東北部)公演に参加して、中国大陸で二ヶ月あまりをすごした。
団長の梅田健一先生、組長の初音麗子さん以下23名が大阪駅を出発したのは9月26日。前半の一ヶ月は新京た奉天などの都会の劇場で、後半のひと月は北満のあちこちに散っていた舞台を訪ねて公演するスケジュールである。
戦争の真っただ中とはいっても、初めのうちは見るもの聞くものが珍しくて、兵隊さんにシラミを見せられては「ヘェーツ、これが・・・」と身震いし、甘い物が不足している時とあって、こちらでは羊かんが食べられる、と皆は無邪気にはしゃいでいた。
しかし、急に寒さに見舞われて雪になり、思ってもみなかった辛い雪中行軍を強いられたこともあった。
広い荒野を、連日、ほろなしトラックで走り回っていたので、そこがどこだったのかはわからない。が、突然の雪で道が消えてしまい、徒歩で何時間もさまよい歩くことになったのである。生徒たちも重たいリュックをせおっており、しかも靴はふつうの短靴。雪でまつ毛も白く染まって、これでよく凍傷にかからなかったと不思議なほどだ。
慰問公演の出し物は『吉野忠信』や『越後獅子』のような小品物だが、兵士たちは大喜びしてくれてすごい反応だった。どこの部隊だったか、大劇場の照明係をしていた山田さんにばったり会い、はるばるやってきた生徒たちを泣きながら歓迎してくれた。>
昭和20年
・宝塚映画劇場で公演再開花組公演
春日野八千代さんによれば、そのころの様子は次のようでした。
<昭和20年の5月になると再び歌劇公演が許可されたとかで、道を隔てた宝塚映画劇場で細々とした公演が始まった。
私は雪組公演『弱虫太郎頑張る』からでているが、その前に雪組組長として梅田映画劇場のアトラクションに出演したり、大阪のや京都の朝日会館で花里いさ子さんと『吉野忠信』を踊ったりと、戦時下とはいえ、結構あわただしい毎日だった。>
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宝塚歌劇団自主製作の映画。
1939年製作の『雪割草』のちらし。
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