第3354回 備後国草土庄のお話。【小説 宇喜多直家 備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

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第3354回 備後国草土庄【くさどのしょう】のお話。

 

 

       2024年6月27日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第55話

 

 

 

 

 

【前話 第3340回の続きより。】

 

 

 宇喜多直家の父とされている、宇喜多興家が備後国鞆港

 

に住んでいた頃の天文時代の広島県福山市は海の中でした。

 

 

 

 

福山城の北側に現在も吉津とか、奈良津とか、地名が残って

 

いますが、当時の海岸線は福山城の約1キロ程度北側で

 

南側は海でした。

 

 

 

 

 

 そんな室町時代の海岸線のお話を説明すると、

 

「お前、ウソを言うな。」

 

と言う人が多いいのですが、今の広島県福山の町は干拓地で

 

当時は海だったのです。

 

 

 

 

簡単に説明すると上のような地形で、箕島と言う地名がありますが、

 

ここは海の上に浮かぶ島でした。

 

現在は干拓が進んで島が陸続きになっています。

 

 

 

現在の芦田川の河川敷に堆積土がたまった浅瀬のような

 

土地があって、ここが備後国草土【くさど】庄と呼ばれていました。

 

 

 

 

草土と書いて、「くさど。」と読みまして、現在は草戸町と

 

地名がそのまま芦田川の東の対岸に残っています。

 

 

 

 

 

 

 

大雨で洪水が発生して、一夜にして商売人の町は

 

濁流の中に消えたとされています。

 

 

 

 

 

今日からのお話の舞台は、ここの備後国草土の庄での

 

宇喜多家のお話を紹介して行きます。

 

 

 

 

 天文四年こと、1535年の春、備後国の鞆の後地【うしろじ】

 

に住んでいた宇喜多興家の一家には、後の春家となる六郎が

 

誕生し、母親のお春さんは、育児に忙しい日々を送っていました。

 

 

 

 

ご先祖の宇喜多家が海運業によって、身を起こしたように、

 

もう一度、宇喜多家を再興しようとしていた宇喜多興家公は、

 

青江 家次らの物資の運搬の警護に加わり、忙しい日々を

 

送っていたのです。

 

 

 

 

【明治時代の鞆港の様子の古写真】

 

 

鞆【とも】港から東に海岸沿いを半日程度船で進むと、

 

備後国草土庄【くさどのしょう】がありました。

 

次の船荷の行先は草土庄であったのです。

 

 

 

 

【明治時代の鞆の沖合の様子の古写真】

 

 

宇喜多興家一行は、海岸沿いを東から北に進み、当時大川と

 

呼ばれていた、現在の芦田川【あしだがわ】の付近に船を

 

進めたのでした。

 

 

 

【次回に続く。】