第3340回 宇喜多春家公の誕生のお話。【小説 宇喜多直家 備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

模型公園のブログ

模型公園の日々の出来事のブログです。

第3340回 宇喜多春家公の誕生のお話。

 

     

       2024年6月20日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第54話

 

 

 

 

 

 

【前話 第3326回の続きより。】

 

 

 宇喜多春家と言う武将は、非常に謎が多く、研究家に

 

よっては、春家は、忠家と同人でとか、いろんな説が

 

ありますが、どの説も、その人の思いのお話で、世間が

 

納得する証拠資料が無いのです。

 

あったのかもしれませんが、慶長6年【1601年】

 

以後、宇喜多家の所縁の品は破壊されて行ったので、

 

滅失したのかもしれません。

 

 

 

 

そこで誌面では、岡山県の江戸時代の言い伝えに沿って、

 

誌面にて紹介して行きます。

 

長男の宇喜多直家公が、父親の宇喜多興家公が32才の時の

 

享禄2年【1529年】生まれの子で、次男の忠家公が、

 

父親の宇喜多興家公が36才の時の天文2年【1533年】

 

生まれの子で、三男の春家公は、詳しい生年が今現在も

 

不明です。

 

 

 

【明治初期の 広島県沼隈郡鞆【とも】の港の様子の古写真】

 

 

 どの説も、春家は逃亡先の備後国の鞆生まれと言うお話が

 

定説となっていて今日のお話もそれに沿ってお話を進めて

 

行きます。

 

つまり、天文3年に着の身着のまま逃げて来た、宇喜多興家と

 

お春さんは、同年8月頃に夫婦の関係を持ったと言う仮説を

 

基本として、10か月程度後の天文4年に生まれたと推理します。

 

 

 

 

【明治時代の 広島県福山市の鞆【とも】の海岸の様子の古写真】

 

 

 

 宇喜多興家が、備後国の尾道港の賑わいを見て、

 

宇喜多家の再興を行うには、ご先祖が行ったように、

 

海運によって、財を蓄える方法が望ましいと考える

 

ようになって行ったようですが、身一つで逃げて来た

 

ので銭は無く、船も無く、用心棒のようなことを行って

 

日銭を稼いでいたのですが、そのわずかな銭も残念ながら

 

お春と子供2人の日々の暮らしに消えて行ったのでした。

 

 

 

「何かしなければ、このままではならん。」

 

「きっと、旧領【邑久郡豊原庄】を取り返して見せる。」

 

 

と思いを巡らせていたのですが、思いと現実は

 

違っていたのでした。

 

年が変わって、天文4年【1535年】の年の宇喜多興家公が

 

38歳の時に、後妻のお春さんのお腹の中にいた赤子が

 

生まれたのでした。

 

 

 

 

【明治時代の広島県福山市鞆町の様子の古写真】

 

 

 

ちょうど、直家公が6才の頃、忠家公が2才の頃の

 

出来事でした。

 

以前紹介したのですが、備後国の門田庄の生まれの

 

お春さんには前夫との間に2人の子があったそうで、

 

3人目の出産で男の子でした。

 

お春さんにとっては、周囲の顔色を窺い、身の危険を

 

感じながら2人の男の子の養育をしていたのですが、

 

一生を振り返ってみると、この頃が一番穏やかな日々

 

だったようです。

 

そう、戦国乱世の世の中は、平穏に暮らすことを

 

許さなかったと言うか、旦那の宇喜多興家公が、お家再興

 

などと唱え、また、戦乱に巻き込まれて行くことになって

 

いったのです。

 

 

 

 

そのまま、備後国鞆町に隠棲し、静かに暮らしていたら

 

と思って鞆の歴史を勉強すると、少しすると足利義昭が

 

鞆に逃げて来て、室町幕府の御所を鞆に移したり、慶長

 

6年には、福島正則の軍勢が鞆に押し寄せ、焼き討ちを行い

 

鞆の町は大半が焼失し、多くの人が亡くなることになります。

 

そう言う訳で、そのまま住んでいたとしても平穏とは言え

 

なかったようでした。

 

 

 

【次回に続く。】