第3318回 甲型巡洋艦 青葉の多幸のお話。【昭和の伝道師】 | 模型公園のブログ

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第3318回 甲型巡洋艦 青葉の多幸のお話。

 

 

 

       2024年6月9日日曜日の投稿です。

 

 

 

昭和の伝道師【戦中・戦後のパイロットの物語】第2812話

 

 

 

 

 

 

【前話 第3304回の続きより。】

 

 

 以前に紹介したと思うのですが、奈良県の畝傍中学【現在の畝傍高校】

 

に私が在学中、夏場に三重県の伊勢の二見海岸で、観海流と言う

 

古式泳法の講習がありまして、海軍を志していた私は、奈良県から

 

そちらに参りまして、不断寺と言うお寺に御厄介になっていたと言う

 

お話は以前に紹介しました。

 

ここの部屋で、ふんどしに自分の名字を筆で各人が書いて、

 

海に出向くことになっていたのですが、同級生にいたずらをされまして、

 

「多幸。」と書かれてしまいました。

 

「多幸。」とは、当て字でして、海に住む「たこ。」と言う意味でした。

 

そう、私の学生の頃のあだ名は、「たこ。」であったのです。

 

顔を見つめると、目と目の間の間隔が少し広く、後ろ頭が少し大きかった

 

のです。

 

 

「わいは、あんさんらより、脳みそがようけつまっとるんや。」

 

 

などと当時、強がりを言っていた記憶があります。

 

畝傍中学での教室で、恥ずかしいと感じると、すぐに顔が

 

赤くなってしまうことが多かったのです。

 

こんな経緯で、あだなを「たこ。」と呼ばれていました。

 

 

 

 

昭和三年こと、1923年12月、私が移動してきた

 

神奈川県横須賀市は、12月で冷たい寒風が吹いていました。

 

そう、軍帽が飛んで行く程度のすごい風でありました。

 

海軍兵学校を卒業して、練習艦や、古い乙型巡洋艦の

 

矢矧や、駆逐艦の秋風の勤務しかなかった私は、当時の

 

最新鋭の甲型巡洋艦【重巡洋艦のこと】に転勤となって、

 

機嫌よく移動したのです。

 

 

 

 

当時の甲型巡洋艦 青葉は、大正15年こと、1926年9月25日

 

進水式を行い、翌年の昭和二年こと、1927年9月20日に完成就役

 

したという、当時の日本海軍の最新鋭艦でした。

 

 

 

「やっと、日のあたるポストに移動や。」

 

 

と、こんなことを思いながら乗艦しました。

 

同じ程度の年齢や、数年年下の水兵などに、整列して敬礼して

 

もらい、

 

「うむ、ご苦労、国はどこの出身か。」

 

などと、呼びかけながら、士官室に向かったのでした。

 

当時、甲型巡洋艦の青葉には、二通りの士官室がありまして、

 

 

 

 

一つは、艦の幹部が着席する、佐官【さかん】専用の部屋と、

 

もう一つは、

 

 

 

 

私達の尉官専用の士官室でありました。

 

ここに、飛行長と言う、私達の航空屋を統帥する

 

士官で、海軍大尉がおられまして、まずはそちらに

 

着任の挨拶を行いに出向いたのです。

 

その海軍大尉は、なにやら忙しそうに帳簿を付けている

 

最中で、辞令を提出し挨拶すると、

 

 

 

 

 「貴様、何かの間違いではないか、水偵の

 

搭乗員は定員が揃っていて、貴様の機は

 

ないぞ。」

 

 

と言う訳です。

 

そして、その辞令を見るなり、

 

「中尉が、偵察員。」

 

などと、ビックリしたような顔をして、大声で

 

叫んだのです。

 

周囲の士官達も、その声を聞くなり、私の方を

 

じろりと見る訳です。

 

私は、恥ずかしさから、真っ赤なタコのような顔になり、

 

何も言えなくなっていったのです。

 

 

 

 

そう、当時は偵察員と言うと、水兵の役目で、少数ですが、

 

下士官がいた程度の役目でありました。

 

 

【次回に続く。】