第3282回 備後国木梨庄と大田庄の尾道港のお話。【小説 宇喜多直家 備前岡山の父】 | 模型公園のブログ

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第3282回 備後国木梨庄と大田庄の尾道港のお話。

 

 

       2024年5月23日木曜日の投稿です。

 

 

【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第50話

 

 

 

 

 

 

【第3268回の続きより。】

 

 最近、広島県尾道市十四日元町の朱華園の中華そば屋も

 

閉店してしまい、古い尾道の姿を知る人も少なくなりつつ

 

あります。

 

宇喜多興家が訪ねた頃の天文の頃の備後国尾道はどんな姿

 

だったのか、回答できる人は数名です。

 

西の日比崎小学校の東に栗原川が流れていますが、西御所から

 

川に沿って、尾道バイパスの栗原小学校付近、そう、昔、

 

消防署があって、味龍のラーメン屋、緑と言うレストラン

 

があったあのあたりまで入り江になって海が来ていました。

 

よって、天満町や、栗原西1丁目、栗原西2丁目や、

 

門田町などは埋め立て地だったのです。

 

栗原川の川幅が広がっていたとか、そんなイメージを思い

 

浮かべていただくと良いかと思います。

 

 

 

 

それから、今の尾道市役所の建物がある海岸沿いの地域は

 

当時は海でした。

 

十四日元町の西山本館の建物や、中国銀行尾道支店の付近

 

から、長江三丁目の長江中学校の近くまで、川が流れていて、

 

ちょうど、国道2号線、長江口の交差点付近より、昔、

 

消防署と、北山と言うフランス料理のレストランが現在地の

 

尾崎に移転する以前のお店があったあたり、このあたりが

 

長江川の河口でした。

 

朱華園の建物の以前は、石岡金物店で、古い朱華園の

 

昔の南側のお店などは海の中でした。

 

 

 

 

 平安時代から、尾道市の北側の山中にある世羅の地周辺は、

 

美味しいお米が採れる豊かな土地として知られていて、空海で

 

有名な、高野山 金剛峯寺の荘園でした。

 

わかりやすく言うとお寺の領地でした。

 

ここの地方を、備後国大田庄【おおたのしょう】と呼んでいました。

 

その南側を、木梨庄【きなしのしょう】と呼んでいました。

 

鎌倉時代の終わりまで、すべてが高野山 金剛峯寺の荘園でした。

 

 

 

 

備後国の大田の庄の政所【まんどころ】は、尾道市久保町に

 

ある浄土寺でした。

 

ここが、当時の市役所や、警察署や、裁判所を兼ねた

 

政治を行う中心でした。

 

ところが、建武三年五月ニ日 と言いますから、西暦1336年

 

に海上から、足利尊氏の率いる九州地方の水軍の軍勢や、

 

西の三原方面から、弟の足利直義の軍勢が陸上から攻め寄せ、

 

当時、浄土寺は、金剛峯寺が後醍醐天皇の南朝を支持して

 

いたので、戦うか、滅ぶかを選択することになっていった

 

そうです。

 

当時の僧侶は熟慮し、自ら汚名を背負い、尾道の町を

 

戦火から守る決断を行ったそうです。

 

 

 

 

勝ち目が無いと考えた当時の浄土寺の政所は、足利方に降伏し、

 

年貢を足利家に納める約束をして、金剛峯寺を裏切って、以後、

 

北朝方につく約束をしたそうです。

 

その時に、足利尊氏は、鞆に向かう前に、浄土寺が裏切らない

 

ように目付の御家人をこの地に残していったそうです。

 

 

 

 

その御家人を杉原兄弟と言って、現在の尾道市木庄西に鷲尾山城跡

 

と言う場所があって、ここを本拠地にして、尾道の周囲を取り囲み、

 

 

 

 

 

お寺がある尾道港は、そのまま大田の庄 尾道港と呼んで、浄土寺が

 

政務を管理し、周辺を木梨庄【きなしのしょう】と呼んで、杉原氏

 

が支配する体制がこの時から続いていたのです。

 

 

 

 

 つまり、足利尊氏と言う武将はしたたかで、大田庄の世羅地方

 

から年貢の穀物が陸路で尾道港に運ばれるのですが、必ず、

 

杉原氏の領地の木梨庄を通過して、尾道に荷物を持ち込むことに

 

なります。

 

年貢をごまかしたり、坊主共がインチキを行わないように

 

足利尊氏は考えたようです。

 

 

 

 

 

 

南北朝時代の騒乱から時は流れて、室町時代の天文の頃、

 

浄土寺も一定の権力を持っていたようですが、だんだんと

 

杉原氏の影響が強くなっていったようです。

 

つまり、周辺を杉原氏に封鎖されると、尾道港は干上がって

 

しまうそんな立場だったようです。

 

 

 

 

尾道水道は、尾道大橋付近から西に潮が流れていて、

 

自転車程度の速度で、西へ、西へと船は流されます。

 

宇喜多興家達が乗り組んだ船は、備後国 岡島城前の海域で

 

海に綱を結び付けた石を投げ落とし、停泊したのでした。

 

 

 

 

ちょうど、尾道駅の南側に昔は岡島こと、川島と言う

 

尾道水道の中に島がありました。

 

ここに、岡島城と言う杉原氏の海の拠点があって、

 

北側の千光寺山に、千光寺山城と言う砦があって

 

尾道水道を見張っていました。

 

しばらくすると早船に乗って、杉原氏の家臣が

 

宇喜多興家達の乗った船に近づいて来て、

 

 

「船の荷を検め候【あらためそうろう】。」

 

 

と叫んで乗り込んで来たのです。

 

 

 

 

 

 

「鞆の小鍛冶の貞次でございまする。」

 

「これは、本日、鞆の海で捕まえました、鯛の魚で

 

ござりまする。」

 

「手土産にて候【そうろう】。」

 

と、船の後ろの魚籠を引き揚げ、生きて飛び跳ねる

 

鯛の魚を杉原氏の家臣に見せると、

 

 

「これは、これは、かたじけなく候【そうろう】。」

 

 

と、積み荷をほどいて検めることも無く、魚を受け取って、

 

上機嫌で岡島城に戻って行ったのでした。

 

 

 

【次回に続く。】