第3197回 八郎君【宇喜多直家】と備前赤目鉄のお話。【小説 宇喜多直家【備前岡山の父】】 | 模型公園のブログ

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第3197回 八郎君【宇喜多直家】と備前赤目鉄【あこめてつ】のお話。

 

 

 

         2024年4月11日木曜日の投稿です。

 

 

☆【脚本小説】宇喜多直家【備前岡山の父】第44話

 

 

 

 

【前話 第3182回の続きより。】

 

 

 天文三年こと、1534年7月3日、落ち延びて来た

 

宇喜多興家と、八郎君こと後の宇喜多直家と、乳母の

 

お春さんと、抱いていた赤子こと、後の宇喜多忠家の一行は、

 

 

 

   

 

 

 

備前国児島の林村こと、現在の岡山県倉敷市林地区から、

 

水島を通過し、備後国鞆津【とものつ】こと、現在の広島県

 

福山市沼隈町鞆の港の手前1キロ程度の場所に停泊したのです。

 

河野水軍の軍船の船長【ふなおさ】が、

 

 

「皆の者、帆をおろせぃ。」

 

「綱をつけて石を落とせい。」

 

 

と叫ぶと、手慣れた様子で次々と甲板作業が進んで行った

 

のです。

 

 

 

 

 

今の時代は、船は鉄の錨【いかり】を海に落として停泊しますが、

 

室町時代の当時は石を加工して穴をあけ、ここに綱を通して

 

よく綱を結んで錨の代わりに石を水中に落としていたのです。

 

港町には、石工【いしく】が繁盛すると言って、大勢が

 

石の仕事をしていたのですが、鉄の錨と言う概念はなく、

 

石で錨の代わりの品を作っていたようです。

 

 

船長【ふなおさ】は、

 

 

 

「積み荷の縄をほどけ。」

 

「荷を陸揚げするぞ。」

 

 

と、大声で叫ぶと、藁【わら】で巻かれた杉の板の木箱が

 

どんどんと小舟に積まれていったのです。

 

 

 

 

備後国の鞆の港から東に約1キロ程度進んだ海岸沿いに

 

河野氏の所縁の寺院の本願寺があり、その場所に備前国

 

吉岡庄から積み荷を運んできたのです。

 

 

八郎君【後の宇喜多 直家】が、

 

 

「大変そうじゃ。」

 

「手伝って遣わす。」

 

 

と、藁にまかれた荷物を両手で持ち上げようとすると、

 

重たくて全く動かなかったのです。

 

それを見ていた、船長【ふなおさ】は、

 

 

「はっはっはははっ。」

 

「可愛い子じゃ。」

 

「まだ無理であろう。」

 

 

と言うと、周囲の船乗りたちは手を止めて、ちらりと

 

八郎君の方を見ると、

 

 

「はっはははははははっ。」

 

 

と大笑いしたのでした。

 

 

八郎君が、

 

 

「父上、動きませぬ。」

 

 

と叫ぶと、宇喜多興家は、

 

 

「船長どの、この荷駄の中身は何でござる。」

 

と問うと、船長は、

 

 

 

 

 

「これは、備前国吉岡庄の赤目鉄【あこめてつ】じゃ。」

 

「我らは、ここでこの重たい赤目鉄を降ろし、これから

 

貴殿をお連れする館に、この品物を運んで、今度は、

 

また新しい荷物を積んで伊予の国の河野郷に向かう

 

のでござる。」

 

 

 

 

と、そんな会話をした後、宇喜多興家一行は、小舟に乗って

 

備後国の鞆港の東の後地【うしろじ】の砂浜に上陸したので

 

した。

 

 

 

 

 今は知る人は少ないのですが、戦国時代は鉄は戦略物資だった

 

のです。

 

今現在で言えば、核爆弾の原料のプルトニュームとか、そういう

 

表現をするとわかりやすいかと思います。

 

鉄は大変貴重な物資で、鉄を押えた大名がその地域を支配できる

 

と言われる程度貴重な物資だったのです。

 

 

 

 

伊予国の河野水軍の軍船は、備前国から赤目鉄【あこめてつ】を

 

備後国の鞆港に運んで何を作っていたのでしょうか、

 

次のお話をお楽しみに。

 

 

 

【次回に続く。】