第2882回 備前国新田庄住正次の作刀地を見学する。【岡山県和気町】   | 模型公園のブログ

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第2882回 備前国新田庄住正次の作刀地を見学する。

 

       【岡山県和気郡和気町】 三毛猫犬ハート

 

 

       2023年11月7日火曜日の投稿です。

 

 

【 前話 第2870回 備前国新田郷について。】

 

【 前話 第2876回 備前国新田庄の平安時代について。】

 

前記の続きより。

 

 

今日のお話は、備前国新田庄に住んでいたとされる

 

日本刀の刀工の作刀地を見学したお話です。

 

 

三毛猫ピリピリ

 

バツレッド新田庄と書いて、「にったのしょう。」と読むのは

  

  間違いで、

 

二重丸新田庄と書いて、現地では、「にゅうたのしょう。」

 

 と読むのが正しい読み方です。

 

           三毛猫ラブラブ

 

 間違えて、「にったのしょう。」と呼んでいる人が

 

 いたら、教えてあげてください。

 

 

 

 

 

京の都の白河に昔あった大きな寺だったと言う

 

法勝寺からやって来た僧侶達が洪水が発生したら

 

水没する吉井川と金剛川と初瀬川の合流する

 

河川敷を堤防を築堤して干拓して農地を造り、

 

 

 

 

 

尺所と書いて、「しゃくそ。」と言う地域に寺院を建立し、

 

性寺【しょうじ】と言うお寺を拠点として、備前国新田庄の

 

荘園が出来て、平安時代から次々と低地の埋め立てが進められ

 

て行きました。

 

そして放置されていた河川敷はどんどんと水田になって行った

 

ようです。

 

 

 

 

 

 

そんな新田庄の初期の荘園のお話を前回紹介したのですが、

 

古い和気町の文章を精査していて、新田庄の刀工が

 

住んでいたとされている地域の文章を発見し、その地域を

 

見学しに行ってきました。三毛猫ルンルン

 

 

 

 

 

その場所は、昔の新田庄の中の稲坪と言う小さな集落で、

 

山陽自動車道の和気インターチェンジの北東のすぐ

 

近くの場所です。

 

 

 

 

 

 

現在もその場所の地名は残っていました。

 

 

 

 

三毛猫!

 

和気町の古い記録によると、昭和の頃、工事を行う為に

 

地面を掘削したら大量の金くそが出土し、ほぼ

 

間違いのない刀工の住んでいた場所ではとありました。

 

現在、新田庄の界隈で、大量に金くそが出土した

 

のは、ここだけだったそうです。

 

よって、ここが刀工の作刀地ではないかと言う

 

お話が文章で残っていました。

 

 

 

 

 

その文章には、稲坪の東側に延びる谷間の道を

 

東側に進み古い池の近くとありました。三毛猫ハッ

 

 

 

 

 こんな感じの道を東に進んで行くと、池があるのですが、

 

 

 

 

 

 山を登って行くと、ダムのような大きなため池がありました。

 

 

 

 

 

 

 おそらく推測ですが、大量の金くそが出土したと

 

される場所は、ため池の築堤の下の谷間と思われます。

 

 

 

 

 

鎌倉時代の昔、この場所は谷が東に延びて、中央に

 

せせらぎのような小川が流れていたと思われます。

 

現在、大きな土手が造られ、大きなため池となって

 

いました。

 

 

 

 おおよそ、上の写真の近くから東側に刀工達の集落が

 

あったものと思われます。

 

ここの地下から大量の鉄のクズが出土したと記録に

 

あります。

 

 

 

 

鎌倉時代の二字在銘の時代のこの地域の古い作者から、

 

少し刀工の名前を紹介すると、

 

☆正治 元年【1199年】頃、

 

             直宗

 

 

☆建暦 元年【1211年】頃、

 

             国真【直宗の子】

 

 

☆貞永 元年【1232年】頃、

 

             国真【備前太郎】

 

             国安【国真の子 五郎三郎】

 

             国貞【国真の子 次郎】

 

             国宗【国真の子 三郎】 

  

 

 

☆嘉元 元年【1303年】頃、

 

 

             則吉

 

             則次

 

             正次

 

☆嘉元 三年【1306年】

 

 備前国新田荘住左近将監正次

 

 

☆徳治二年【1307年】

 

 備前国新田荘住親善造

 

 

☆正和五年【1316年】

 

 備前国新田荘住右衛門尉親依【ちかより】

 

 

 

 

☆元徳四年【1332年】

 

 備前国新田荘住親依

 

 備前国新田荘住景依【かげより】

 

 

 

 

 

 

              

☆暦応元年【1338年】【北朝年号】

 

 備前国新田荘住左兵衛尉則次

 

☆康永二年【1343年】【北朝年号】

 

 備前国新田住久次

 

 備前国新田庄住親次

 

 

 

 

 

途中で、南北朝時代の北朝の年号の作品が確認されているので、

 

この地方の支配する武士が、北朝の足利氏の勢力の傘下の

 

人だったのかもしれません。

 

 

 

 現地を歩いてみたら、ずいぶんと地盤が高い場所で、

 

水害の危険のない、稲坪の谷の地盤の高い場所に

 

刀工の集落があり、水が流れるせせらぎの左右に

 

家があったのかもしれません。三毛猫?

 

 

 

 

多くの刀剣書が、

 

「備前刀の素材の鉄は良質の砂鉄を産出する中国山地の

 

 ーーー云々。」と言う文章でごまかして詳細について

 

具体的な文章が無いのか実情です。

 

 

 

 

それで、備前刀の原料の鉄はどこの産出だったのかと

 

調べている途中です。三毛猫??

 

 

 

 

 

  この地方について古い文章を調査中ですが、ここの

 

 吉井川沿いに複数のたたら製鉄の跡地の遺跡があることが

 

 わかって来ました。

 

 

 

 

 そういう場所で、大鍛冶と呼ばれていた人々が鉄を造り、

 

 川船でこれを運搬し、小鍛冶と呼ばれていた刀工が、

 

 その鉄を加工して、日本刀を作刀していたようです。

 

 

 

 

 

 

 作刀場所や、原材料の産出場所や、出来上がった製品の

 

 流通ルートも一緒に調査しているのですが、ここの新田庄の

 

 荘園の場合、 荘園の荘官が年貢の管理を行っていた

 

 と思われるのですが、

 

 大和伝の 千手院、手掻、当麻、などの寺院の系列の刀工と、

 

 同じく、手掻の系列の古備後刀の 尾道の刀工、三原の刀工の

 

 ように、僧侶に指示されて、作刀して、出来上がった作品を

 

 寺院に年貢として納めていたのかもしれません。

 

 

 

 

ところで、新田庄の刀工の鉄ですが、上の写真の富士山のような

 

山の形の山の東側に大量の鉄クズが出土したと言う文章があって、

 

金剛川の川向うは和気荘園となるのですが、調査に向かいました。

 

 

 

 

    三毛猫 じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】