第1912回 天正の長船大洪水の地を見学する。【岡山県瀬戸内市長船】 | 模型公園のブログ

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第1912回 天正の長船大洪水の地を見学する。【岡山県瀬戸内市長船】

 

 

 

             2022年9月11日 日曜日の投稿です。

 

 

 

              三毛猫犬ラブラブ

 

 

 

 

三毛猫ハート

 

 今日のお話は、昔昔の室町時代の末期、天正十九年【西暦1591年】

 

に発生したと言う長船大洪水の地を見学したお話しです。

 

口伝によれば,当時、数百名の規模を誇っていた、備前長船の

 

刀工達、勝光工房、 祐定工房、清光工房、春光工房他、一夜にして

 

消えてしまい、3名残して全滅し、長船の刀鍛冶は量、品質とも

 

廃れた原因になっていったと伝えられています。

 

この出来事については、地域全体が全滅した故に、墓や、古文書

 

なども一切残っていなくて、謎が多いいのです。

 

数年前から、少しずつ研究をしていて、途中ですがわかったことを

 

少し紹介します。三毛猫犬ルンルン

 

 

 

 

昭和の戦後、多くの研究者や、愛刀家や、行政機関の人達が、

 

えーピリピリ

 

「天正大洪水で、他国に出ていた、祐定の3人が助かり、その他の

 

人達は水害で死亡した。」

 

「その3人の祐定が、その後、江戸時代の横山家祐定となった。」

 

 

と言う文章はどうも研究して見て正しくないようです。

 

三毛猫犬ハート

 

初めに、結論を書くと、岡山県の和気町の古文書に、こんな文章が

 

あります。

 

 

「 天正十九年、七郎右衛門と、その子の藤四郎は、大水に流され、

 

土師村の山へ木につかまって流れ着く。」

 

「藤四郎の子、三人あり、七兵衛祐定、 源左衛門尉祐定、

 

宗左衛門尉祐定と名乗る。」

 

 

とあって、正確には、2人流され、南の土師村の山にたどり着いて

 

助かったようです。三毛猫犬アセアセ

 

 

 

【 上笠加の山から 長船方面を撮影 】

 

 

上の写真の中央右の白い鉄筋の建物が、長船の方向です。

 

画面上の左が、現在の吉井川の上流です。

 

 

 

 

 

鎌倉時代から、室町時代は、現在の新幹線の高架付近から長船に

 

直線的に吉井川が流れていたと考えられています。

 

 

 

 

一遍上人絵巻物も、福岡の市の東側に吉井川が描かれています。

 

 

 

 

 

 

三毛猫犬!!

 

当時、おそらく、扇形に濁流が広がり、長船を襲い、南東につまり、

 

画面右下の土師の南側の山々に濁流が打ち寄せたようです。

 

 

 

 

 古文書にある土師の山【はじのやま】とは、どこなのかと言うと、

 

上の写真、右上の山と思われます。三毛猫犬!!

 

 

 

  【 七郎右衛門さんと、子の藤四郎が漂着したと推測される場所 】

 

 

 今現在の様子ですが、現在の農地は干拓で、山すそが当時の

 

河岸だったようです。

 

 水量が多い季節は、河岸となり、水量が少ない季節は、荒れ地の

 

河川敷のような場所だったようです。

 

ところで、天正十九年のいつ頃、水害が発生したのかは、わかって

 

いません、それで、今、それを調べています。三毛猫犬??

 

 

 

 

 

三毛猫犬ルンルン

 

調査方法①

 

◎品物から調査する。

 

当時の刀剣の銘の年期から調べていく作業を行っています。

 

 

当時の銘は、

 

「備州長船祐定」

 

「天正十九年二月日。」 存在しています。

 

「天正十九年八月日。」  不明です。

 

 

この当時の銘には、特徴があって、二月 または、八月の

 

製作年月日が続いています。

 

これは、焼き入れの水温に原因していて、長船鍛冶は、旧暦の

 

長慶宣明暦の二月と八月に焼き入れをすることになっていた

 

ようです。

 

どう言うわけか、後銘や、偽物など、故意の品を除いて、

 

天正十九年八月の銘の年期が無いのです。

 

よって、洪水が発生したのは、7月かそれ以前ではと推測して

 

います。

 

おそらく、6月か7月のどちらかと思います。三毛猫犬ハート

 

 

 

 

調査方法②

 

過去の水害の歴史を古文書から集め調査する。

 

間違いを少なくするために、西側の小田川沿いの井原市や、

 

髙梁川沿いの倉敷市などの水害の古文書と対比しながらデーターを

 

今、集めている途中です。

 

明治6年から太陽暦になって、1が月程度月が早くなっています。

 

それを考えないといけません。

 

 

岡山県の長船町周辺の水害、大地震の歴史

 

 

 1 昭和20年【1945年】9月17日 

 

   大洪水29名死者、2万4千人被災、224戸流失

 

 2 昭和10年【1935年】7月5日 午前7時大雨

 

   348戸浸水、18戸流失

 

 3 昭和 9年【1934年】 9月21日大洪水 

 

   116戸流失

 

 4 明治42年【1902年】11月10日 大地震

 

 5 明治32年【1899年】 9月21日 大洪水

 

 6 明治32年【1899年】 9月 8日 朝 大洪水

 

 7 明治32年【1899年】 7月22日 大洪水

 

 8 明治32年【1899年】 7月10日 大洪水

 

 9 明治27年【1894年】 4月26日大洪水

 

10 明治26年【1893年】10月14日大洪水

 

11 明治25年【1892年】 7月大洪水

 

12 明治24年【1891年】10月28日大地震

 

13 明治17年【1884年】 大洪水

 

14 明治15年【1882年】 大洪水

 

15 明治13年【1880年】 大洪水

 

16 明治 3年【1870年】5月19日 大洪水二丈余の水、

 

   80戸浸水、20戸流失 

 

17 明治 2年【1869年】5月26日から長雨続き、

 

   6月3日 夜中、大洪水

 

18 安政 6年【1860年】11月5日夕方大地震

 

19 嘉永 6年【1853年】大地震 

 

20 嘉永 3年【1850年】6月3日 大洪水

 

21 安永 7年【1778年】正月18日 大地震

 

22 享保 6年【1721年】7月11日 大洪水

 

23 享保 元年【1716年】9月 大風洪水

 

24 享保 元年【1716年】6月8日 大雨洪水

 

25 宝永 5年【1708年】6月22日 大風洪水

 

26 宝永 4年【1707年】10月4日 大地震

 

27 宝永 4年【1707年】 9月12日 大風洪水

 

28 宝永 4年【1707年】 8月19日 大風洪水

 

29 元禄15年【1702年】8月29日 大雨洪水

 

30 元禄15年【1702年】7月28日 大雨洪水

 

31 貞享 4年【1687年】9月9日 大雨洪水

 

 

 

32 天正19年【1591年】 大洪水 長船鍛冶全滅

 

33 大永の頃【1527年】 大洪水 備前福岡城流失全滅

 

34 応永13年【1406年】秋、大風洪水

 

 

こうして、データーを集めている途中ですが、明治の頃の

 

水害の発生の状況を見ると、江戸時代の水害の被害の記載漏れ

 

が多数まだあるのではと思っています。

 

室町時代も同様です。

 

 

 

 

西日本豪雨水害を経験してみての感想ですが、室町時代の大永の

 

大洪水の時は、備前福岡城が流された言い伝えが残っていますが、

 

徐々に増水したので、長船の住民は、東側の畠田や新庄の山に

 

避難して、家や作業場は流されたのですが、人は被害が少なかった

 

のではと思っています。

 

それに対して、

 

天正19年の大水害は、おそらく水害の顛末はこうでは

 

なかったのかと思っています。三毛猫犬アセアセ

 

 

 

三毛猫犬!!

 

上流のどこかで、山が長雨で斜面が大きく崩壊し、大木や、残土で、

 

吉井川が、部分的にせき止められた場所が、その後の長雨で

 

ダムのようになり、その場所が夜中に決壊し、一気に下流に

 

土石流や、津波のように流れ下った。

 

 

 

 

時間は、夜中の寝ている時間帯であった。

 

天正19年の7月頃は、豊臣秀吉が天下を統一し、千 利休居士

 

が切腹させられた年です。

 

戦国時代のように軍勢が攻め込んでくる、そういう時代は

 

終わったにしても、大雨の日には、夜でも、見張りがいて

 

おかしいと感じたら、鐘を鳴らしたり、そういう危険を

 

知らせる行為の掟があって、長船、福岡、服部、土師などの

 

村も同様の対策はしていたはずです。

 

それも、避難することが行われず、長船鍛冶の村は、人も家も

 

家畜もすべて流され、薄明るくなった頃は、長船、服部、福岡

 

などの村々は、土石流に押しつぶされて消えて無くなっていた。三毛猫犬アセアセ

 

 

 

 

 たぶん、鉄砲水のような濁流が突然、襲ったのではと思っています。

 

そして,大量の土砂が長船に打ち寄せて、水か引いて、東側の地面が

 

高くなり、西側の以前、備前福岡城や、福岡の町があった地域が、

 

東側に比べて、地盤高が低くなって、現在の吉井川の川の流れが

 

西にカーブするように、曲がって、流れるように変化したのでは

 

と考えています。三毛猫犬!!

 

 

 

 

 

そういう事情で、室町時代の備前福岡城跡や、町の跡は,現在の

 

吉井川の川の中に埋もれてしまい、400年以上経過して、

 

場所がよくわからなくなって、現在に至っているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

三毛猫犬!!

 

この、

 

「備前長船、深夜の土石流壊滅説。」

 

を証明するには、上流の地域を時間を作っては、歩いて見ながら

 

斜面が崩壊した場所はどこなのかを調査する必要がありそうです。

 

それから、長船の刀剣博物館の近くの複数の箇所で、

 

ボーリングマシンで、土地の下のコアを抜いて、柱状図を

 

作成して、吉井川の室町時代の地層の様子を、特に堆積土

 

の様子をデーターで証明する必要があります。三毛猫犬アセアセ

 

 

 

 

古文書を調査すると、現在の吉井川の名称も、時代時代で

 

人々は違う呼び方をしていたようです。

 

1 岡見川

 

2 雄神川

 

3 大川

 

4 東大川

 

など、錦川のと言う文字もあります。

 

 

 

 

 

今日は、天正19年に発生した、備前長船の刀鍛冶が全滅したと

 

言い伝えのある長船大洪水の調査の途中を紹介しました。

 

誌面を見て、何かわかったことがあったら、投稿で教えていただくと

 

ありがたいです。三毛猫犬??

 

 

 

 

三毛猫じゃあ みんな また 明日ね。ハートラブラブ

 

 

【次回に続く。】【転載コピー自由です。】