第1907回 昭和の伝道師・昭和に改元し、世の中が悪化ス。 | 模型公園のブログ

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第1907回 昭和に改元し、世の中が悪化ス。

 

 

             2022年9月9日金曜日の投稿です。

 

 

 

 

 

【前話 第1904回の続きより。】

 

 

 前年の大正15年の12月のクリスマスの12月25日に

 

大正天皇が崩御されて、年号が、大正から昭和に改元された

 

のですが、その後、年が変わって昭和2年となったその後も、

 

東京や横浜周辺で1月に悪い流行性の肺炎が流行し、その後、

 

次々と企業や銀行が倒産し、失業者がどんどん増えて行った、

 

そして、日本国内外に飛び火して行ったのです。

 

3月に入ると、京都府の豊岡あたりで、大きな地震があって、

 

3千人程度の死者が出たり、台湾銀行が破綻したり、

 

 

 

財閥の鈴木商店が倒産したりと、どんどん大日本帝国に不幸が

 

続いて行ったのです。

 

 

 

 

 私の部隊の海軍水雷学校では、国家予算が削られ、さらに軍縮が

 

叫ばれるのは必定、

 

「海軍士官も首になるのでは。」

 

と、そんな噂が広がって行ったのです。

 

当時の海軍兵学校の一学年のクラスは50人以下になっていた当時、

 

私達の海軍兵学校の第52期のクラスは、八八艦隊構想の時代で、

 

約220名程度いたと思います。

 

その前年の51期、 その前の年の50期も同様でして、

 

3年間で約700名近い生徒が卒業していたのです。

 

そんなに、少尉や、中尉は必要無かった当時、心配する同期が

 

増えて行ったのです。

 

 

 

 

 軍艦を動かせば、お金がかかるわけでして、野外訓練は、

 

陸戦の訓練が自然と増えて行ったのです。

 

7年前の尼港事件で海軍陸戦隊と外務省の石田副領事一家が、

 

全滅したお話しは以前詳細に紹介しましたが、

 

 

「皇軍兵士が、共産党赤軍に陸戦で負けるとは不名誉なことで、

 

日々の訓練で、訓練成果を発揮できるように。」

 

 

などと、檄を飛ばされ、5月とは言え、大汗をかいて厳しい

 

陸戦訓練を受けていたのです。

 

 

 

 

たまに、海軍水雷学校の空の上を飛行する飛行機を見ては、

 

早く転属したいと、繰り返し思うようになって行ったのです。

 

 

 

 

急激な大日本帝国の昭和の大恐慌と呼ばれる混乱で、国家予算が

 

圧迫され、陸軍と海軍は喧嘩をして予算の取り合いをしていた

 

当時、 どうしても艦艇の建造に予算が回り、航空機予算は削減

 

される傾向にあったようです。

 

 

 

 

 その海軍の艦艇を建造していた 造船所にも金融危機が飛び火し、

 

次々と海軍の艦艇を建造中の造船所が経営にいきずまって行ったり、

 

銀行から融資がストップしたりと、大変な事になって行ったのです。

 

そうすると、経営者は、社員や、下請けの会社を守ろうと、現金を

 

持って、海軍の将官や、当時の与党、立憲政友会の議員に面会し、

 

虎の子の資金をばらまいて行き、仕事を海軍から受注しようと

 

必死に頼み込んだようです。

 

こうした、動きは、後に、大きな収賄事件となり問題となって

 

行ったのです。

 

収賄事件は、新聞記者によって日本全国津津浦々まで

 

新聞紙で配布され、不幸な人達に、さらに反感を抱かす

 

ようになって行ったのです。

 

 

 

 

陸軍や海軍のこの当時の若手の将校達に、与党 立憲政友会の高橋是清

 

元総理大臣達が命を狙われるようになって行ったのは、

 

彼は、

 

「財政再建。」

 

「予算の削減。」

 

「増税。」

 

正しい事を言っていたつもりだったようですが、それを行うと、

 

多くの人達が生活が成り立たなくなり、不幸になって行ったのを、

 

助けたり、少なくしたりする行為をやっていたのかどうかわかり

 

ませんが、広報が少なく、伝わらなかったようです。

 

 

 

 

 

 残念な事に、世直しをしようという人達は、共産党員や、社会主義者

 

だけでなく、若い陸海軍の将校にも広がって行ったのです。

 

数年後、君側の官に天誅を加え処刑し、昭和の維新を行おうという人達が

 

大勢出てくることになって行ったのです。

 

 

 

 

 その昭和維新の先陣をやろうという海軍将校が集まって行く事に

 

なっていった部隊が、実は、私達が転属を希望していた、

 

茨城県の霞ヶ浦航空隊であったのです。

 

5年後、 ここの部隊で、銃器や手榴弾を持って、総理大臣官邸を

 

襲撃する海軍将校が出て行くことになって行ったのです。

 

 

【次回に続く。】