《トリビアNo.107》宮城県の島々が白菜を広めた―沼倉吉兵衛と馬放島― | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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 白菜は1875年(明治8)、内藤新宿試験場(現新宿御苑)に中国から種が持ち込まれ試作されたのが始まりとされます。しかし、完全に結球した白菜を育てることはできませんでした。理由は日本の在来アブラナ科類の野菜や植物と交雑してしまい採種しても結球しない種子になるためでした。
 その後の研究により完全に結球する白菜が育成され、1894年(明治27)に愛知県の野崎徳四郎によって明治天皇に献上されました。しかし、質の高い種子の大量増殖は難しく、仙台市にあった養種園が1906年(明治39)に発刊した「最近蔬菜栽培法」には「あたかも甘藍(はぼたん)のごとく葉と葉と互いに包んで球を結びたりしも今日世間にありふれたるものは絶えて球を結びしものなし。けだし種の不良なるに因るか、あるいは栽培宜しきを得ざるによるならんか」と白菜の結球しにくいことについて言及しています。

(沼倉吉兵衛(写真:登米市教育資料館展示資料より))

 県農業試験場を経て養種園に勤めていた登米町(現登米市)出身の沼倉吉兵衛(1859~1943)は、日清戦争時に兵士が持ち帰った種子を使って1916年(大正5)松島湾の馬放島(まはなしじま)において交雑を極力抑えた採種に成功します。これはミツバチが光を反射する海面を嫌い島外に移動しないことに着目し、島内にある他のアブラナ科植物を排除して採種することで、高品質な種子ができたのでした。

(多聞山から見た馬放島(左奥の島。右手前は地蔵島))

 その後、県内の種苗会社がこの採種法を発展させ、桂島、寒風沢島、朴島、宮戸島など県内の離島で採種を行い、いくつかの優良品種が県内で栽培され、大正末期から昭和初期にかけ「仙台白菜」として東京だけでなく遠く関西まで貨車で出荷され一世を風靡しました。それらの品種は「松島〇号」と名付けられ、採種地である松島を冠しています。

(仙台白菜)

 現在でも松島湾の島々や海岸部では採種が行われており、のどかな春の海をバックに菜の花畑が広がる風景は宮城の春の風物詩として愛され続けています。

参考資料:せんだい市史通信24号(2011)
       「旬」がまるごと3月号「はくさい」(2010ポプラ社)
       渡邉頴二著「天職に生きる」(1997)

 

(執筆:斗田浜 仁)