《トリビアNo.103》なぜ「青笹不動尊」が消失したか? | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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 青笹不動尊は、青葉区堤町3丁目19-10、県道仙台泉線沿い、仙台北郵便局の向かい側にありました。この不動尊は、仙台藩七北田刑場に縁の遺跡であり、昨年の3月頃なくなってしまいました。そこで、知り合いの住職に、この不動尊の関係者を聞き、連絡を入れたところ、この方は「青笹不動尊奉賛会」の代表者で、不動尊は借地上に有り立ち退き問題が発生しており、また、毎月の祭典や年大祭等の費用が増加し、かつ、奉賛会の会員の高齢化等で維持できなくなり、引き受け者を探していたが中々見つからず、残念ながら閉鎖に至たり、青笹不動尊、他の仏像も一切廃棄処分しましたとのことでありました。
 青笹不動尊は、文化財ではないが、刑場の歴史を知る上での関連史跡として必要であります。仙台藩評定所で死罪の判決が出ると、付加刑として城下町を引き回しされ、七北田刑場で処刑されました。仙台藩では、囚人は裸馬に乗せられ城下の寺町を隈無く引き廻され、北根街道を刑場へと引かれて行きました。この街道周辺は一面に青い笹の葉が生い茂り滾々(こんこん)と泉が湧いていました。囚人はこの泉で末期(まつご)の水を所望出来ました。この泉の辺りに置かれていた石碑を懇ろにお祀りしたのが青笹不動尊の始まりと云われています。以来、今日まで地域の氏神様として大切に祀られておりました。この不動明王像は1838(天保9)年に作られたもので、敷地には、庚申塚は1826(文政9)年、馬頭観世音は1851(嘉永4)年、山神は1856(安政3)年等の石碑があり、貴重な史跡でありました。
 仙台七北田刑場は1690(元禄3)年頃から明治まで約180年間にわたり、一般庶民(百姓、町人、格下げ武士)に磔刑、火刑、斬罪等の刑罰が執行された所であり、処刑された人は実に7000人にも上ると云われています。

参考文献:七北田探検団「奥州街道編」他

 

(執筆:吾妻 信夫)