特別展「なつかし仙台5」にて昔の東一番丁を探す ―前編― 《by マッツアン》 | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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 マッツアンです。2023年秋に開催したいっきゅう会の研修会では東一番丁通を歩きました。今の建物の以前にはどんな建物があったか?佐藤会長の説明を受けながら歩いたのですが、見たことのない建物を頭の中で想像するか、当時実際に見たはずの建物を思い出すしかありませんでした。

 研修会終了後、令和5年1125日から令和6年4月14日まで仙台市歴史民俗資料館にて特別展「なつかし仙台5」と題した昔の仙台の風景写真を展示する企画展が開催されているとの情報を得て、昔の東一番丁通の写真がないか行ってみました。

 仙台市歴史民俗資料館です。いっきゅう会の研修会では2回お世話になっています。

 さっそく、南町通側から東一番丁通に関係する写真を探してみました。まずは「仙台松竹」「仙台ピカデリー」の写真がありました。大人の事情で掲載できませんが、上映している映画から判断すると2001年(平成13)の冬のようです。この写真はぜひ資料館でご覧下さい。こには1925年(大正14)創業の映画館「文化キネマ」がありました。

この脇の小路の名前が「文化横丁」なのは、この映画館に由来します。映画館は戦災で焼失しますが、1950年に「文化劇場」として再建、1958年(昭和33)「仙台松竹映画劇場」に改称、2001年(平成13)に閉館しています。写真はまさに閉館年に撮影された一枚ということになります。

ちなみに「ピカデリー」はイギリスのロンドンにあるピカデリー・サーカスという広場に由来します。その広場の周辺は繁華街で劇場や映画館などが密集していたことから、それにあやかって名付けたようです。

 次は百貨店「藤崎」の写真です。昭和20年代の写真で奥の高いビルが藤崎です。ちょうど青葉通りの反対側から写した写真です。

道路の角にはパン屋「ひらつか」があります。藤崎の創業は1819年(文政2)に初代藤﨑三郎助が太物商(綿や麻といった太い糸の織物を扱った織物商。絹織物は呉服商)を開いたのが始まりで1912年(明治45)呉服店として株式会社化し、1919年(大正8)には陳列式の店舗形態に変更、百貨店になり現在に至っています。

パン屋の「ひらつか」は1918年(大正7)塩竈で「ひらつか製菓舗」として創業しています。戦後に東一番丁にレストラン&菓子店として店を構え、1959年(昭和32)に「ひらつか製パン」を設立し、1967年(昭和42)にはインストアベーカリーを開始。仙台市民に親しまれましたが、2001年(平成13)に廃業しています。

 次は藤崎の絵はがき写真で昭和初期の写真です。これは戦前の1932年(昭和7)に建てられた地下1階地上3階(一部4階)建てのビルの写真です。

前の写真とビルの高さが違います。向かい側にあるのは「西内楽器店」。1926年(大正15)に竣工、5層に見える木造の建物ですが、戦災で焼失しています。

この写真はちょうど東一番丁と大町通の交差点で奥に向かっていけば名掛丁を経て仙台駅方面、反対側には芭蕉の辻があることになります。

東一番丁をちょっとだけ離れ、芭蕉の辻の写真を探します。芭蕉の辻のある国分町通は昔の奥州街道です。この道を南に行けば江戸、北に行けば南部藩に向かう道となります。奥州街道と仙台城への向かう道が交差する地点が芭蕉の辻です。現在、北西の角には芭蕉の辻の碑があり、その東側には日本銀行仙台支店があります。この支店は1941年(昭和16)に18番目の支店として開設されました。現在の業務区域は宮城、岩手、山形になります。ちなみに東北地方における支店開設は、出張所から支店に昇格した福島支店が1911年(明治44)と一番早く、次が1917年(大正6)の秋田です。当時の日本では米はもちろん林業や鉱業、製糸業が重要な産業であり、そういった産業の成長著しい県の支店開設が早かったと考えられます。

芭蕉の辻の写真がありました。1908年(明治41)頃の写真です。右側の洋館が日本銀行仙台支店の建物になりますが、建物自体は1903年(明治36)に七十七銀行として建てられ、1929年(昭和4)には西洋料理店「精養軒」となり、その後日本銀行仙台支店になっています。奥が北になります。電柱が木製ですね。

 1908年頃の芭蕉の辻)
 もう一枚芭蕉の辻の写真がありました。1933年(昭和8)の写真です。
 1933年頃の芭蕉の辻)

これも奥が北になります。洋館が精養軒になっていた頃です。はす向かいに明治製菓があります。1926年(大正15)に開業した路面電車仙台市電の路線「芭蕉の辻線」は1928年(昭和3)に敷設されました。循環線の南町停車場からたった300mの路線です。それだけ芭蕉の辻は賑やかな場所だったのでしょう。路面電車の線路があるはずなのですが、この写真では残念ながらはっきりしません。

 現在の「芭蕉の辻」と同じ方向から撮影してみました。だいぶ違いますね。
 
 再び東一番丁の写真を探します。1986年(昭和61)のフォーラスの写真がありました。 

東一番丁の中心的な建物で、待ち合わせの場所として有名な場所です。伊坂幸太郎原作「ゴールデン・スランバー」が映画化(2010年公開)された時、物語の序盤で主人公(堺雅人)と友人(吉岡秀隆)が待ち合わせする場所がここでした。仙台フォーラスは各階に色々なカジュアルファッションや雑貨の専門店が入っていてまさに仙台の流行の最先端を行くビルです。フォーラスとして開業したのは1984年(昭和59)。建物自体は1975年(昭和50)に建てられたビルでその時は「ジャスコ仙台」でした。ファッションビルと言うより生鮮食品から衣料品、雑貨まで扱う総合スーパーのようなビルでした。ディスコやライブハウスもあり当時としても東一番丁の中心的な建物でした。現在のフォーラスと比較すると微妙に違いますね。まずロゴが違います。また角のエレベータの部分が白くなっています。

では明治時代まで遡るとここには何があったのでしょう。1885年(明治18)桜ヶ岡公園(現西公園)にあった芝居小屋「吉岡座」がここに移転し、「松島座」に改称して営業を始めます。その後活動写真や歌舞伎の専門小屋として営業しますが、1924年(大正13)に火災で焼失、翌年には「日活パテー館」として再建されます。その後「仙台日活館」と名称変更し、仙台空襲で焼失しても「仙台日活劇場」としてまたまた再建、ジャスコ仙台ができるまで仙台の娯楽の中心的な場所だったようです。

 今回はここまで。広瀬通より北側の風景は後編をご覧下さい。
 2023年頃のフォーラス)
 
※今回の写真(現在の写真を除く)の掲載は仙台市歴史民俗資料館に許可を得ています。