《トリビアNo.91》山岡志摩守重長の側室は髙麗氏 | いっきゅう会がゆく~宮城マスター検定1級合格者のブログ~

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 山岡志摩守重長(やまおかしまのかみしげなが)(1553・天正22年~1626・寛永3年)は、政宗の重臣で、禄3000石。はじめ小成田(こなりだ)惣右衛門と称していました。1593(文禄2)年4月には、肥前名護屋から伊達隊の一員として朝鮮に渡り、政宗と供に晋州(チンジュ)、梁山(ヤンサン)、蔚山(ウルサン)など各地を転戦、晋州城攻略の時、朝鮮軍陣より若武者一騎が伊達軍に突入したので、山岡志摩が捕らえてみれば、髙麗(こまい)氏の12、3歳の女性でした。政宗は5ヶ月の参陣を終え、髙麗氏を連れて名護屋に上陸、伏見の妻・愛姫の侍女として養育させました。山岡志摩は妻・青塚氏を亡くしたので、1596(慶長元)年髙麗氏を後室に迎えました。1626(寛永3)年、重長が74歳で亡くなり、長男、養子も次々と亡くなり、山岡家は断絶し、残された髙麗氏は、山岡の名称を惜しみ、藩に嘆願して再興に尽力、併せて山岡氏の知行地・桃生郡深谷下堤(ふかやしもつつみ)(現東松島市上下堤)に「山岡院(さんこういん)」を創建、自身は富山大迎寺を開山した瑞巌寺百世洞水和尚によって落飾し、要善尼となり、山岡家の菩提を弔いました。髙麗氏は1654(承応3)年に没しています。「山岡院」は、廃寺となっていますが、近くの臨済宗妙心寺派の福寳山済興寺の中條住職に伺ったら、山岡院の御本尊は預かっておりますが、墓地管理はしておりませんので、寺院跡地、墓地(正室・青塚氏の墓と髙麗氏の墓)は、山中に有り行く道も無いとの事でした。また、最近、北山の遠山覚範寺の墓地から、以前まで倒壊してあった墓石を整理していたら、山岡家の墓碑が数碑発見されたが、当寺は過去に3、4度の火事のため、過去帳等が焼失されており、また、子孫も墓参しておりませんので、判明は不可能との事です。

    (山岡志摩一族の墓)

 山岡志摩は、1594(文禄3)年の秀吉主催の花見に、政宗に従って出席し、秀吉の命により、山岡志摩と名を改めました。関ヶ原合戦の折には、政宗の使者となって、徳川家康に会い「百万石お墨付き」を持ち帰りました。仙台開府後は六奉行の一人として、政宗の4男宗泰の懐守(だきもり)を兼務しました。

 

参考文献:岸本隆「松島町郷土史夜話」他

 

(執筆:吾妻 信夫)