(写真は表紙から引用)

久しぶりの遠藤周作。1979(昭和54)年、遠藤56歳の作品。

 

マリー・アントワネットの一生を大河ドラマ的に描いている。史実通りの最期に至るまで、小説としての構成が複雑で、遠藤らしい。随所に非常に細かい史実(若しくは歴史学的な一般見解)を小説仕立てに折り込み、時には遠藤の解釈を入れている。従って、フランス革命に対する遠藤的解釈集とも云える。

 

田舎出身で恵まれない女性マルグリット。彼女の横顔はマリー・アントワネットにそっくり。これは遠藤作品でよくみられるパターンだが、境遇が真逆の二人が夫々の人生を歩み、物語のある時点から、密接に交わるようになる。彼女の他にも、元修道女等、身分は低いが本作品で活躍する登場人物は遠藤の創作と思われる。

 

で、そういった架空の登場人物が、王妃に、いつ、どういう交わり方をするんだろう?とワクワクさせられる、遠藤マジック。

 

若い頃から、マリー・アントワネットは、民衆の不満に恐怖を感じ、それを紛らわせるために贅沢三昧に浸っているわけで、やがて起こる、人民たちによる革命を予知していたというのが遠藤の解釈。

 

それならば、同じ時期、夫であるルイ16世は革命を予感していたのか?という疑問が湧く。予感していた、と思う。ルイ16世の趣味は鍛冶作業であり、罪人がもがき苦しむ従来の死刑方法を憂慮し、ギロチンを発明し、苦しむことなく一瞬で死に至らしめるようにした。優しいルイ16世のこと、素晴らしい人道的見地である。ただ、いずれ自分が死刑となることを想定していたのではないかと思わせる記述(だが、明言されていない)。

 

この夫婦、根っからの快楽好きで何をやるにしても甘っちょろい。必死の逃亡劇(ヴァレンヌ逃亡事件)なのに、大量のワインや、衣装タンス、銀の食器など、逃亡には余計なものを持参している。さらには、もう追っ手は来ないだろうと勝手に気を緩め、お花摘みに興じる。で、案の定追いつかれる。絶対に失敗してはいけない仕事をやる場合は、200%達成したことを確認して初めて一息ついていいのです。生きるか死ぬかの瀬戸際なら、馬車に座るのが辛いなどという我が儘は封印しなくちゃね。

 

平民に対して強硬姿勢であり、生き延びる為に母国オーストリアの武力にすがったマリー・アントワネット。そうでなかったら、同情を受け、ギロチンは免れたかもしれない。

 

基督教作家、遠藤周作の作品に基督教そのものがテーマになっていない作品は少ない。本編はその少ないうちの一つ。但し、ところどころに登場する。「革命への行進がエルサレムに入ったイエスのようだった」とか。

 

直接的な表現はこれ。

処刑の朝、マリー・アントワネットが祈る。

「生まれて以来、犯したかもしれぬ全ての過ちについて神のお許しをお願いします」。

 

ジャコバン派ロベスピエールによる恐怖政治の犠牲になったマリー・アントワネット。

若きナポレオンを3行だけ登場させるところが遠藤の茶目っ気。