猫好きにはたまらない作品。

これだけ猫が大事にされている小説は、『吾輩は猫である』と本作くらいだろうと思う。

 

猫、庄造、先妻・後妻の4人が主な登場人物なのだが、人間はすべて猫のシモベとして、猫をめぐって右往左往するコメディである。雌猫は擬人化され、妖艶な魔性の女として描かれる。谷崎『痴人の愛』のナオミが猫になったようなものだ。

 

すべての元凶は、庄造の猫好きが常軌を逸していることであって、妻は「私と猫とどっちが大事なんですか!」となる。先妻はそれもあって追い出されるが、庄造には未練もあるので、猫をかくまって、庄造をおびき寄せる、という小話。

 

1936(昭和11)年の刊行。

 

庄造は仕事が長続きせず、職を転々とする、だらしないダメ男だが、争いごとは好まず、人当たりがいい。こういう男は、何故だか、ある特定の女性にはもてる。令和の時代もそう。

 

猫もそういう人間が好きですよね。心を許した相手には、甘え声を出しながら、ざらざらした舌でなめ回してくるし、蒲団に潜ってくるし。猫は自分に好意を持っている人間かどうか、空気で読んでいます。庄造のような人畜無害な人は、猫は好きですよね。

 

じゃじゃ馬だが、実家が裕福で多額の持参金まである女(後妻)を迎え入れる為に、子種がないという理由で先妻を追い出すというところ、昭和初期になっても、今でいう労働基準法無視のワンマン企業みたいな無慈悲が横行していたんですね。人生が変わるわけですから、ひどい話です。

 

で、猫恋し、庄造は禁断を破って、先妻の家を訪ね、猫に会いに行く。この辺りのハラハラ感は読者を引きつけて放しません。新喜劇みたいです。

 

「待ちいな!」

「放しとくなはれ!」

という小気味よい大阪弁が、本作全体を通して飛び交う。

 

老猫が安寧にしている姿は見ることができました。癇癪持ちの後妻が荒れ狂っています。結局、ひとりぼっちなのは庄造だったのです。

 

ここで物語は終わるが、その後どうなったでしょうね。

 

私だったら、こういう後日談にします。

 

10歳を越えた老猫は「僅かばかり会わなかった間に、又いちじるしく老いぼれて、影が薄くなったように見えた」。ここから類推すると、老猫は天寿を全うし、庄造は悲しみに打ちひしがれるが、改心して妻とやり直すことを決心するのでした。

 

 

猫と妻を天秤にかけること自体、ナンセンス。猫は、夫婦で可愛がりましょう。猫はかすがい。

 

(写真は表紙から引用)