また民主党による事業仕分けが行われています。


もはや官僚とは対決姿勢のない茶番劇でしかないとか言われていますし、消費税率引き上げのためのパフォーマンスという側面もあるかも知れませんが、いろいろな議論を国民に喚起するというだけでも意味はあるのかなと思います。



実態もなくマネー・ゲーム化した経済や放射性物質を撒き散らしながらでも利権を欲しがる政治など自分達の預かり知らないところで行われていることにも関わらず、影響力だけは僕たちの生活の根底を覆すような大きさです。


クラブで派手に酔っ払って踊り明かしても、現実の悪夢は深まって行くばかりです。


食通を気取ってボジョレーヌーボーを嗜みながら鼓腹撃壌といこうとしても食物の汚染は進行しています。


ミレーの絵画に描かれたような農作物を作りながら祈りと共に敬虔に生きるサイレント・マジョリティでいようとしても、やがてTPPの波に飲み込まれるはずです。


現代に生きる人々は余りに多くのものを望む不遜な存在なのかも知れませんが、等身大の身の丈なんてものはとっくに失われているのかも知れません。


確かなものがあったらしいという嘘か本当か分からない記憶を明滅させながら、不確定な要素が溢れかえるカオスの海を泳いでいるのか溺れているのかも分からず息も絶え絶えにもがいているだけなのかも知れません。


それがネットであろうと、実社会であろうと世界へのコミットが必要なのかも知れません。


あえてKYということも必要なのかも知れません。


何かにぶつかった衝撃で目がチカチカするかも知れません(You're Shock,Sure Shock!)。


もやもやを感じを抱えてしまったら、吐き気を催すかも知れません。


擦れ違ったまま放っておくと、痛みがずきずき疼くかも知れません。


他者への怒り、悲しみ、喜び、共感などの感情は感動するためのマーケティングの記号のように扱われるだけで、それが自分自身の中から湧き出しているということは忘れ去られたままです。


その思いをこそ具現化する言葉でなければ、神なき時代にも関わらず、祝福という名の下に、感動を代弁しようとするニセ予言者どもが跋扈してしまいます。


オウム真理教のように無理矢理神を作り出そうとした悪夢は、裁判もようやく終わって全てが終わったと思われている現在こそ、再び頭をもたげる可能性はいくらでもあるはずです。


ロンハーで有吉さんが言う様にカリスマがそこら中にいると言うのは、カリスマの本来の意味とはかけ離れてしまっています。


流行り廃りでカリスマを持ち上げるということは、言い換えればカエサルの様な孤高のカリスマなど求めていないということです。


民主主義を選んでいる以上、英雄がただ一人では殺されてしまいまう運命です。



決断するにせよ、逃げるにせよ、はぐらかすにせよ、笑い飛ばすにせよ、コミットすることこそがたくさんの人々の英雄的な思いを結び付けるもののように思います。

本当に哀しい年になりました。


東日本大震災、原発事故などの大きな災害に痛ましい思いもありました。


しかし、僕にとっては中村とうようさん、北杜夫さん、立川談志家元と明らかに僕の人生の時の人々と言えるような方々が次々と亡くなった年になってしまいました。


家元は「ふとした病で死ぬなんていいね」とか「野垂れ死にしたい」なんて仰っていましたが、亡くなったこと自体が未だに信じられません。



友人を通して家元のプライベートな話も伝え聞いていましたが、僕にとっての家元は立川流の落語会での物品販売のとき、千社札を配っていた家元に後ろから押されたこともありぶつかってしまい、そのときばらばらに落ちた千社札を嫌な顔もせずに拾われていた優しい方という印象だけです。



僕の好きな方々にも家元を尊敬している方は少なくありません。


爆笑問題の太田さんは普段から家元への尊敬を公言していましたし、2人でDVDまで出していました。


伊集院光さんはラジオで家元がゲストで来たときに、「俺はお前が落語を辞める体のいい理由になったというそれだけだ」と言われながらも、敬意が溢れていました。


サンボマスターの山口さんは訃報のニュースの直後から、Twitterで家元への熱い思いの丈をぶちまいています。


ずっと読み続けていた福田和也さんがen-taxiで家元や談春さんと色々と始めたときは大変嬉しかったものです。


弟子である志の輔さん、談春さん、志らくさん、ミッキーさんなどは言うまでもありません。


北野武さん、石原慎太郎さん、西部邁さん、手塚治虫さん、赤塚不二夫さんなどとの交流も楽しかったものです。



BGMはこの哀し過ぎる年を暖かく照らし出すような山下達郎さんのアルバム「Ray Of Hope」です。

みんな僕の人生のenlightmentばかりです。


1603junさんのブログ-510v0DEAnqL.jpg

NHKでドイツ国内のトルコ人移民についての番組を放送していました。


アメリカのグリーンカードなどは有名ですが、ほとんどの国も似た様なもので、その国にとって利益をもたらすような人材だけを移民として受け入れて国籍を与えるという話です。


サッカーのドイツ代表チームにも選ばれているトルコ人のエジルやカンボジア代表になれるか(?)の猫ひろしなど世界中にいくらでも例は転がっています。


当然の帰結として、その国の言葉も満足に話せないような教育のない人々、国家に技能で栄誉をもたらすことなどとてもできない者、高額納税するような財産も何も持たない人々に対する風当たりは強くなります。


雇用する側もそのような人々をなるべく受け入れたくないと思うのは当然でしょう。


やがて、職にあぶれたそんな人々の少なくない者が犯罪に手を染めるか、売春などをして生きていくようになります。


そういった人々の多くがゲットーに住むようになり、アンダーグランドな世界との結びつきを強くしていくのも当然です。


そういう意味では、外国人の受け入れが犯罪の温床になるというのは、連鎖的に繋がっているところがあります。


一方、安い賃金により仕事を奪われたブルーカラーのドイツ人たちがネオナチの名の下に集まって不満を爆発させるわけですが、彼等らの生活の切実さから言えばインテリ層の人々の言う融和という言葉が綺麗事に聞こえているはずです。


移民を受け入れるということはそういう社会的に不安定な要素を誘発しているというのも少なからずあると思います。


でもこの時代に完全な鎖国や選民思想が有り得るはずがありません。


余裕がなければ他者を受け入れるというのは本当に難しいことですね。


でもその余裕を経済力とそのまま置き換えるような真似だけはしたくありません。


美空ひばりの名曲「東京キッド」の有名なフレーズ「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム」と歌われたのは、そこら中が敗戦による貧しさに覆われていた時代です。


ディスコミュニケーションやミスコミュニケーションが生み出すハプニングを笑える余裕が欲しいですねニコニコ


片言でしゃべる女の子を可愛らしいと思うっていうのも悪くないと思います。


軋轢が憎しみしか生まないというのはやっぱり哀しいことです。