那珂川は猿田彦神の発祥の地とされる。
この地には、住吉神の元宮もある。
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★目次
☆1 猿田彦神は高良神
☆2 猫城の高良神
猿田彦神は高良神
(「儺の國の星」拾遺48、穂波星:ほなみほしより引用)
猿田とは水漲田(さはりだ)の略である。古語で”さ”は水であった。早稲(さなえ)は籾から出た芽が水の上に細くのびたばかりの稲をいう。/四月に植え八月に刈る品種が育つところが猿田であった。”うへてさる”が卯と申を意識させた百姓の言葉であった。
猿田とは、「卯経て申」という早稲のこととある。
この”さるた”が、田にまつわる様々なものに繋がる。
おそらく、そのどれでもあるのだろう。
那珂川は、市公認の猿田彦発祥の地とされている。
日吉神社があり、さらに住吉神の元宮の現人神社がある。
日吉神社
ここに二つの元宮があるのは、猿田彦神は住吉神と同神であるからだ。
住吉神は高良神であり、饒速日命。
彼は男神の天照。
神話での猿田彦神の登場の仕方が「光り輝く」や、国つ神の天照ともされるのは、それを暗示しているゆえであった。
その日吉神社の由緒書きにこのようなものがある。
”さるた”とは赤米の一種。
春に浅瀬の多い川を止めて湖を作り、これに苗を植え夏の日照り時に水を引いて秋の収穫まで干し上げる古式栽培のことでもありました。
いわゆる、乾田農法。
おそらく、実際に土地を開拓などしてそれを広めた者達が「さるた彦」と呼ばれるようになったと思われる。
猫城の高良神
「儺の國の星」には、それをうかがわせるものがあった。
(別の項)
下代久事橋の上手に十入道(とうにゅうどう)の字名があり、標高九九・三米の輪郭をたどると市ノ瀬、成竹、不入道の部落が水底に水没し、猫城で支える巨大な湖が存在していたことが分かる。これを”なかのかふち”と呼んでいたらしい。
(十入道とは、不入道のことか?)
猫城は、「那珂川の一の瀬には高良神が若い頃にいた猫城あり」と筑前風土記に書かれてある場所。
(標高が分かるwebより)
左図はその辺りの地図
右図は拡大となる。
左図の★マークが猫嶺城。
おそらく、猫城の横の辺りで川を堰き止めて、南側に湖を作っていたと考えられる。
そこで稲作をしていたのならば(仮定の話)、猫嶺城の標高は101.8mなので、99.3mは深すぎかもしれない。
左図の成竹の「端」が78.2mなので、それぐらいと思われる。
久留米の高良大社の高良神の若い時の居城であったという猫城。
彼は国の根っ子を作った神とされるので、根子神の名がある。
もともと「根子城」であったのだろう。
「根」は大根地山と同じ「貴人、神」の意味がある。
根子神である高良神は、猫城におられ、その管理をしていたのかもしれないと推測される。
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ちなみに、「儺の國の星」の著者は真鍋氏。
先祖は物部氏であり、鹿島の神官、太宰府の星見歴を経て、那珂川へ。
この辺りは、真鍋さんの名が多いそう。
中之島公園の売店「かわせみ」で、野菜や米に貼られてる生産者のシールを見たら、あちこち真鍋氏。
親戚の人たちですか?と聞いたら
「この辺りは真鍋さんだらけ!みんな真鍋さんだから、名前で呼んでる」とのこと。
みな、彼らの子孫だったとしたら凄いな。
那珂川産の米、世界一美味しいです。
「かわせみ」や数件しかありませんが。
那珂川には、神功皇后が指揮して土地の人と作ったとされる裂田溝(さくたのみぞ)があります。
彼女は「高良玉垂宮神秘書」では、高良神と夫婦とあります。
彼は武内宿禰でもあるので、共にこの地を整備したことに。
安徳の住所が入った米がある時は購入してます。
裂田溝は、今もこうして大切に使われているよ。
きっと、想いは彼らに届いていると思います。
「かわせみ」での真鍋さん、思い出したので追記しました。
( つづく )
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