天津日嗣(あまつひつぎ)とは、暦を作る技術を継承することであった。
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★目次
☆1 天津日嗣
☆2 神功皇后
天津日嗣
(「儺の國の星」拾遺46、千年星*ちとせのほしより引用)
...一日への調整は熟練した天文歴法の家系による計算と観測の先祖代々の記録が必要となる。これが天津日嗣(あまつひつぎ)であり、天子であった。天皇一代の歴法を選定する儀式を太歳という。
天津日嗣とは、本来、暦を制定する技術の記録のことを言うらしい。
それを日嗣(ひつぎ)=日継ぐのが継承というわけなのだろう。
また、物部は星暦の仕事をする一族であったという。
「儺の國の星」」の著者の真鍋氏の祖先は物部氏であり、太宰府でまさにこの星暦を編纂していた。
ゆえにこの本が存在する。
この国の神が物部の祖神、饒速日命であり、彼らがもたらした技術が子孫に伝わっていたということになるだろう。
ここで、真鍋氏は神武天皇の在位を記されている。
在位前660~585年
それは皇紀の初め、神武天皇が即位した年とされるもの。
今年で皇紀2684年だとされる。
だが、それをそのまま受けてめている者はいないのではないだろうか。
真鍋氏が「儺の國の星」で神武天皇の即位を「前660年」とされているのは、この本が「高松宮宣仁親王殿下の独逸語 古事記刊行のささやかな一環」とされることも要因であると思われる。
だが、おそらく神武天皇は存在しない。
神功皇后
一方、神功皇后はこのように書かれている。
(在位)201~269年
(福岡での神社の伝承では、神功皇后は押しなべて200年)
香椎宮*神幸祭
魏志倭人伝では卑弥呼が統治していた邪馬台国を200年代としている。
見事に神功皇后と重なっている。
事実、私は「神功皇后」が卑弥呼だと考えている。
神功皇后=高良神の后。
高良神は祇園さん。
麓の祇園山古墳の造営年が3世紀半ばと推定される。
➡邪馬台国の時代
彼らはこの国の神話の神。
神話の神は彼ら二柱に集約される。
(神話はすべて彼らの話)
➡皇祖神とされるのだから、彼らが初め。
よって、邪馬台国の卑弥呼が「神功皇后」。
*彼女の御子とされる応神天皇について
( つづく )
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