玄界灘と有明海は繋がっていた。
☆1 筑紫島の四つの面
☆2 「儺の国の星」の針摺
☆3 針摺の「文化財出土状況」
☆4 「儺の国の星」による当時の様子
☆5 三の地名と三島神
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☆1 筑紫島の四つの面
以前書いた「筑紫島の四つの面」。
神功皇后と高良神、羽白熊鷲に関するものであった。
ゆえにその神話は彼らの伝承から派生したもの。
今回は、上の記事の加筆になる。
(文化財総覧webを教えてもらったので)
(図1 画像は海面上昇シミュレーションシステム)
彼らのいた時代はこの状態であり、ゆえに「筑紫島の四つの面」が成り立つ。(注*1)
☆2 「儺の国の星」の針摺
真鍋大覚氏の「儺の国の星」には「玄界灘と有明海は針摺で繋がれていた」との表記がある。
針摺の語源について、かの本にはこうある。
近東の胡語、Khaliteハリチは狭い水路。
針摺は昔の瀬戸。注野の面影ない。
図1の紫の丸で囲った場所が針摺と言われる場所。
(図2 針摺 画像はYAMAP
左は拡大 Google map)
図1の紫丸の針摺を拡大したのが図2。
ここは現在陸地であり、川が途切れている。
災害などによる堆積物で分断されたのだと想像できるだろう。
図3 地図はGoogle map
ここから北の玄海灘に流れるのは、御笠川。
南の有明海に流れるのは、宝満川。
☆3 針摺の「文化財出土状況」
この場所の文化財出土を示したのが下のweb。
奈良文化財研究所による文化財総覧
(とても素晴らしいです!URL先もご覧ください)
ちょうどこの辺り、文化財が出土していない。
古代、二つの海は繋がっていたと推測される。
☆4 「儺の国の星」による当時の様子
それは物部の末裔である真鍋大覚氏が、那珂川に伝わる伝承、古代の様子を表した本である。
昭和57年 福岡県筑紫郡那珂川町発行。(今の那珂川市)
☆広報 なかがわに連載されていた。
その本との出会いは、何十年も前になる。
那珂川に引っ越して間もなく、地元の図書館で見つけた。
それは物部からの贈り物だと感じてる。
「儺の国の星」には、
☆筑紫の東島と西島が針摺で繋がれたのは雄略帝十七(四七三年)のことである
「拾遺 P71」
とあった。(針摺 図6の1)
それまでは北の玄海灘と有明海は繋がれていた。
かの本には神功皇后は200~269年としており、自分も200年前後と考えている。
彼女の時代には海があったのだ。
(彼女は魏志倭人伝の卑弥呼だ)
この辺りにかかわる言葉を「儺の国の星」からまとめた。
☆昔、筑紫の国はその中央を、北から玄界灘、南から有明海の荒穂、即ち滔々たる海流が貫いて居た。
東なるを宇佐島と云い、西なるを天原と言った。
「拾遺 P82」
(基山の麓、荒穂神社の荒穂はこれなのかも。西の天原=高天原)
☆有明海が脊振、耳納、四王寺を三つの海峡で仕切っていた時代でもあった。
「儺の国の星 P76」
(図1の状況。脊振が左の山地・建日向豊久士比泥別。耳納に高良山・高良大社・白日別。四王寺は豊日別・紫丸の右上辺り)
(図5 地図はYAMAP)
☆東を宇佐の島=右佐(うさの)島
西を天原=左佐(きさの)島=高来島
「儺の国の星」より参考
(建日向豊久士比泥別=高天原)
☆この瀬戸の北の出口に西の儺国(図5 現人神社のある一帯。今の那珂川ほか)
東の蚊田の国があった。現在の糟屋郡がこれである。
「儺の国の星 p28」
”そとも”は自らの故郷を中央にして、視界の及ばざる彼方を云い表す詞であった。(中略)
那珂川では、"そとも"は背振の南、肥前有明海の沿岸を指してきた。
(儺国と書かれてある場所が那珂川・那珂川の人にとっての”そとも”は図6の緑丸辺り)
「拾遺 P195」
(以下、数字は図6の場所)
1 針摺(はりずり)
2 水城
(神功皇后の伝承にある)”やす”とは今の水城辺りの古称であった。ここが有明海と玄界灘の分水嶺であった。
夜須は昔は御笠と三原を合した郡であった。
「拾遺 P236」
有明海と玄界灘の瀬高を見合わせて船を往来する水城を、筑紫野人々は”からとぼし”といった。
”から”は胡語のKhalyakカリヤック、”とほ”は同じくdawダウ(Dohaドーハ)であり、いずれも北語南語で船を云う。(中略)
”し”は司人、すなわち運営管理する官人であり、達人であり、又その役所の総称であった。
「拾遺 P121」
3 四王寺山は潮路見(しおじみ)山、或いは四明山と呼ばれた。
麓の別院が安楽寺であり、今の天満宮になっている。
今から千八百年前の昔はここで南と北の潮目の満ち引きを見る安楽人の望楼観亭があったと伝えられている。
筑後久留米高良大社の絵巻物がこれを語る。
「儺の国の星 P151」
4 雑餉隈(ざっしょのくま)
昔、玄海灘と有明海が舟行の水路で繋ってた頃、今の対馬小路(つしましょうじ)から五十川(ごじつがわ)、雑餉隈(ざっしょのくま 図4の4)、水城(2)を経て太宰府に至る間、石籠(いづろ)あるいは石堂、即ち灯台が置かれて潮の満ち引きにあわせて夜間も航行を可能ならしめていた。
今の井尻なる部落名は石籠のあったところの一つと語られている。
「儺の国の星 P51」
5 塩原村。
昔は昼夜の別なく塩焼く海人が御明(みあかし)をも見守り見巡る番をかねていたのである。
「儺の国の星 P51」
(熊野道祖神社)
6 朝倉
葦舟を”あさくら”といった。”あさつま”とは干潟の古名である。(中略)
朝倉を魏志倭人伝は巴里(はり)国と記す。
”あさくら”も”はり”も高瀬船の元祖の名であった。
「拾遺 P161」
夜須郡夜須村に三並(みつなみ・今はみなみ)なる郡名が残る。かつて有明海の潮が蘆木(あしき)川を遡って、この地まで き上がっていたのである。
「儺の国の星 P152」
7 筑後三原は、玄界灘と有明海の潮の往来が洲を作り上げて(略)
應神帝(二七〇~三一二)から仁徳帝(三一三~三九九)の御宇には、まだ三原の潟にはPapyrus japonicaパラピラス ヤポニカと名をつけるべき背高い葭(あし)が生い茂っていた。「拾遺 P160」
8 高良
胡語でKhalaitカライトは、疏水であり、運河であり、海峡である。
(拾遺 P121)
9 御井(高良山の麓)
10 大善寺玉垂宮
11 三潴の三島神社(魂須霊 4 筑後の饒速日命)
(この辺り三島神社が多数。高良神と神功皇后が祭神)
12 瀬高(磯上物部神社の地)
13 三池
14 肥前高来口ノ津は、有明海の潮待ちの港(佐賀県高木瀬か)
”くち”口は門戸の意であるが、本来は”かし”即ち船のことであった「拾遺 P88」
博多湾から有明海まで三笠(2)三原(7)から御井(9)・三潴・みずま(11)をへて三池(13)と揃った郡名が並ぶ。
(中略)”三”は上下あるいは子午・・・(中略)の方位を言った。
即ち、三笠から御井三潴を経て三池に至る一日行程の舟航は、海上駅逓(えきてい)の氏族が往来していたことになるのである。
「儺の国の星 P151」
(三は子午。銀河をうましのみち・子午線に沿ってほぼ南北に流れるからともあった。三の字で星神を意味するのかも)*1
その他
御笠=針摺のことか(図4の1)
*大野城のことかも
銀河、即ち天の川を極東では”ありなれ”とよび神功記の頃まで用をなした。(中略)
”あり”は大にして濶なる状(さま)であり、”なれ”とは藍にして青、緑にして翠なる色を云った。(中略)
かつて玄界灘と有明海は針摺瀬戸で繋がっていた。神功記以後に御笠なる郡名が置かれたが、以前は大野(おおぬ)であった。これは”ありなれ”の倭約に外ならなかった。
「拾遺 P87」
玄界灘と有明海は繋がれていた。
図6は今の標高5mの場所を結んでいる。
ここと上の表記が一致する。
下の図7は、筑後川河川事務所のHPより出典。
昭和28年の筑後川氾濫水域。
図7 出典 筑後川河川事務所HP
ほぼ図6と重なる。
筑後川はほんの少し前まで暴れ川だった。
瀬高、瀬戸、高木瀬、三のつく地名などは、当時の状況を物語っている。
「儺の国の星」は、千八百年経てなお、正確に伝えている。
那珂川の物部の一族が語り継いできたのだと思うと胸が熱くなる。
彼らは三島神だ。
オリオンを三蓋星、三並、三組星と呼び、水師船軍の守護神とした。(中略)
三島星、或いは三諸星とよんだはるかな昔があった。
”しま”或いは”すま”は船人の渇きを癒す湧水井泉のあるところであった。(中略)
三嶋溝杙の家系である、三嶋も溝 もオリオンの古称であった。
”そくい”は栄井即ち、砂漠の中のオアシスのことえあった。
「儺の国の星 P153」よって、「筑紫島の四つの面」には彼らが関わる。
( つづく )
*記事内の考察や写真、イラストなどの無断使用はご遠慮ください。
*1 この頃の糸島の古代海面が今より3~4m。
標高が分かるwebで4mほどの海面。
福岡の瀬高が5m以上の位置。
この図では5mとしました。
そのシステムは細かい標高を拾ってくれないので、筑紫平野は真っ青になります。
この中に古代の遺跡もあり。
縄文海進の最高は5m。
当時はここまででは無いと思われます。
これは「筑紫島の四つの面」の由来はこれだよと言う図なので、厳密では無いです。
針摺から、玄海灘に繋がる御笠川、
有明海に繋がる宝満川(筑後川に繋がる)がある。
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今更ながら始めました。
古代や神のこと、少しずつつぶやきます。
小分けなので分かりやすいかもです
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