続きです。

 

 

 

 

続いて、楯崎神社のご由緒書、宗像姫の項。

概要。

 

< 宗像姫 >

宗像三神は、天照大神と素戔嗚命の御子なり。

田心姫神、湍津姫命、市杵島姫命は、沖ノ島、中津宮、辺津宮の三カ所に厳重に鎮座。
奇瑞(*1)は、今も変わらず、今も昔も国家を護る大神なり。

旧事紀に曰く、
素戔嗚の子、大己貴神、先に宗像沖津宮に祀られる田心姫を娶り、一男一女、味鉏高彦、下照姫大神命を生む。
次に辺津宮に祀られる高津姫を娶りて、一男一女、味歯八重事代主、高照姫大神を生む。

味歯事代主神は変化して八尋の熊鰐(やひろのくまわに)となる。
玉依姫として生きた、三島溝杭女(*2)の所に通って、一男一女生む。

生まれた子が天日方奇日方命。

(中略)

 

宗像社記にはこう記されてある。
宗像大神が異賊に対して、最初の合戦地に御楯(砦か?)を築いた場所を楯崎とした。
その御楯は、石となって今もあり。

この神山(楯崎神社の山)の険しい峰の上、草木が盛んに生えている所に楯板あり、石となる。


 

勝ち鼓を打ったところを鼓島と呼ぶ。

その鼓、石と成りて今もある。

 


社の後ろに神霊のおられる岩の窟がある。

*1 奇瑞 不思議で目出度いこと。

*2 原文は、三島溝杭女を通じて、玉依姫に生き一男一女を生む。

 

 

< 神功皇后の項 >

 

古老伝える。
昔、息長足姫尊(神功皇后)、将として三韓征伐の折り、 この山に登って神の助力を祈った。
船が泊まっていたところを、京泊という。
社殿の北、御手を洗った所を御手水の瀑布という。

(後は、周囲の地形、名称の謂れ)

「由緒書きより、概要」

 

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 <宗像神>

宗像三女神と言われる神は、実は一柱。

市杵島姫命。

その名は女神天照の中にあった。

 

女神天照の名、撞賢木厳御魂(つきさかきいつのみたま)の意味は、

榊(神との境の木・神の依代)を撞き(つき、響かせるような意味合い)祀る=巫女のこと

厳の御霊=厳島神社の神、市杵島姫命

彼女が豊受大神。

 

男神天照大神が饒速日命。
その后であった、御炊屋姫が天照であり、市杵島姫命。
(「神の鉾 番外編 ~二柱の天照大神~」)
 

大己貴命は宗像三女神とそれぞれ夫婦とあるが、宗像神を三神としたのでこうした伝承になったのだ。

 

ここに記述される神々は、ほとんどが彼ら。
 

 

< 事代主神と三島溝杭女 >

 

ご由緒では、事代主神と「三島溝杭女」の子が、天日方奇日方命。

 

☆事代主神について
 

事代主神は、大物主神(大己貴命)自身です。
(「日本の真相 23 ~勢夜陀多良比売~」)別ブログ開きます。

神武天皇の妃は、五十鈴媛命とされます。
日本書紀では彼女の母は、玉櫛姫、父は事代主神。

古事記では、大物主神(=饒速日命)

事代主神が大物主神であるので、同神です。

また、玉櫛姫とは、御炊屋姫のこと。

饒速日命の名にも、櫛玉彦があります。

(「御炊屋姫を追って ② ~櫛玉比女命神社・弁財天~」) 別ブログ開きます。

 

☆三島溝杭女について

 

伝承により、くいの漢字は様々です。
(杭、樴、杙、橛、咋など。どれでも同じ)
三島溝咋神は、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)。

彼を祀る賀茂神社の葵祭から、饒速日命、住吉神と神功皇后に繋がっています。

(「日本の真相 15 ~前編 葵祭 と 住吉神 と 神功皇后~」)

三島神、みぞくいの名については、下記にあります。

(「魂須霊 5 ~「儺の国の星」の三島~」) ココログ開きます

 

三島神は、饒速日命。

オリオン座の三ツ星を三島星と呼び、住吉神を表していました。

饒速日命=三島神=住吉神です。(上記リンクより)

 

溝橛(みぞくい)についても、上記リンク先。

神武帝の后媛蹈鞴五十鈴媛命は三嶋溝橛(みしまみそくい・三島溝杙と同じ)の家系である。
三嶋も溝橛もオリオンの古称であった。
”そくひ”は栄井即ち、砂漠の中のオアシスのこと。
一望千里の砂礫の中に碧空を映しだす水鏡は、まさに虚慮の中に孤影悄然たる星辰の姿と同じ。

(「儺の国の星」 御笠の星の項より)

 

みそくい=御栄井。

三島の名も、溝橛の名も、オリオン座の三ツ星=住吉神を表す。

三島溝橛神は、住吉神であり饒速日命。

また、三島溝橛姫は、その后、御炊屋姫。

 

 (概要の*2は、

 三島溝杭女=御炊屋姫=玉依姫なので、玉依姫として生きた三島溝杭女と、訳しています。

玉依姫は、役職、神の依り代=巫女を意味します)

 

 

その饒速日命と御炊屋姫から生まれたのが、天日方奇日方命。

しかし、その神もまた饒速日命。

神武天皇でさえ、彼です。

 

彼らは信仰した一族が各地に散らばり、一族の名や、土地の名、職業の守り神として名を替えました。

記紀などの伝承は、名を替えたかの神を余すとこなく当てはめたということです。

 

 

☆神功皇后の子、応神天皇も饒速日命です。
応神天皇とされる八幡神は、饒速日命。

神武天皇と同じからくりです。

 

 

ここには、その神功皇后の伝承がありました。

また、それにまつわる名称を記しています。

 

この由緒書に並んでいる、彼らと神功皇后の伝承。

神功皇后が、饒速日命の后の御炊屋姫であるから、一緒に記述されているのでは。

そう感じたのです。
 

ここには彼女が、この山に登って神の助力を願ったとの記述だけでした。

しかし、この近くの神社には「彼ら」を繋ぐ伝承があったのです。


  

*鼓島の近くまで行った記事

 

 

 

  原文*宗像神と神功皇后

 

宗像三前大神は、天照大神と素戔嗚尊、誓って久しき後に生座の御子なり。

即ち号して曰く、田心姫神、湍津姫命、市杵島姫命は沖津宮、中津宮、辺津宮の三所に厳重に鎮座し、奇瑞、古今不変、国家鎮護の大神なり。

 

旧事紀に案じて曰く、素戔嗚尊の児、大己貴神、先に宗像奥津宮に座す田心姫を娶りて、一男一女児、味鉏高彦根妺(*1)、下照姫命を生む。

次に辺津宮に坐す高津姫を娶りて一男一女児、味歯八重事代主神妺、高照光姫大神命を生む。

味歯八重事代主神は化して八尋の熊鰐と為り、三島溝杭女を通じて、玉依姫に生き一男一女児を生む。

天日方奇日方命なり。


此の命、橿原朝の御世勅して、食国大夫となりて供奉。六世の孫阿田賀田須命は、宗像朝臣等の遠き祖なり。

宗像社記に曰く、当神、異賊に対し、最初、御合戦地の事、御楯を築き始められし処を楯崎と号す。其の御楯、石と成りて今にこれあり。
軍に御勝ちあり。

勝鼓を打ちたまえる処を鼓島と号す。

其の鼓、石に成りて今にあり。

それ神山の峻嶺上、草木蓊蔚(*2)楯板、石と化し、今猶(*3)其の石あり。面の径二尺五
寸、高さ五尺拾も削成せるが如く、東方に向きて立つ。

三方石壁を築き、之を囲繞(*4)す。土人之を敬畏し能く登陟する者あらんや。

社の後に一岩窟の口あり。

方二尺五寸、深さ一丈二尺、乃ち神霊の窟宅とする所なり。西は海岸に面して儳巌千尺(*5)、ここに萬里の溟遼(*6)に絶するに臨み、心目の寥朗を恣し、それ眼下の礒(*7)恣く龍蟠り、虎蹲り(*8)怪異萬状、若し夫れ且夕、潮水、懸崖に灑がば、奔涛絶壁を撃ち、怒りて噴し、神を驚かし、魂を消し(*9)、人を騒がす所、咏吟の雅人、愛賞する所、楯石碕は即ち此れなり。

 

(今、無い漢字などは相当しそうなものを当てました。違ったらすみませんです)

(*1)妺(妹ではない。女の人につける文字)
(*2)蓊蔚(おううつ。草木が盛んに生えるさま。)
(*3)今猶 今も尚、今でも)
(*4)囲繞(いにょう。いじょう。取り囲む)
(*5)儳巌千尺(ざんがんせんせき。極めて高く切り立った険しい崖)
(*6)溟遼(大海原)
(*7)礒(いわお。岩が突き出てるさま。磯)
(*8)龍蟠り、虎蹲り(竜蟠虎踞のことか。地形が険しく攻めにくい地域)
(*9)消し(原文は火+肖)

 

 

<神功皇后と西行法師の項>

 

夫木集 西行法師
    さかおろす楯石崎の白浪は あらきしほにもかかりけるかな

古老相伝えて曰く、往昔、息長足姫尊、将として西征の時、斯の山に登り、而して神の溟助を請わんことを祈り、御船、これに泊する處を京泊と曰う。

社北、御手を洗いし處を御手水の曝布と曰う。

其の側に一題巌あり。

形状艨艦の如し、所謂加羅船なり。

又、三嵓瀬あり、その中間は之を湯壷と曰う。

温泉ありて湧出す。今廃し其の海中に多藝理瀬あり、潮汐将に盈涸の時、猶温井沸湯の勢を見る。

因って之を社北の礒浜と名づけ、之を五色濱と曰う。

細石、悉く五色鮮明なり。

又、猶葉濱に神紋石あり。顆々、楢葉の文あり、隠れし名は、濱に起因す。

鎮子と為すべし。


この岸の西二町許り一岩嶋あり、形状は鼓に類し、草木なし、所謂、鼓島は凡そ、斯の山海の奇勝、言に尽すべからず、皆神明の靈踨なり。


 皇統彌照、天皇桓武天皇の御世、最澄師、求法の為に将に唐国に赴かんとし当社に詣で宿願を達せんこと祈り、自ら薬師彌陀観音像を彫剋し、以て之を安置し号して楯崎寺と曰う。今俗に楯崎薬師と称する所は即ち此の新宮なり。

誤って古宮を称して薬師となし、神山を称して薬師山と曰う。曽って大神の本跡を知る者なし。
曩に、宗像神社の盛んなるや、末社、修造用途は葦屋新宮濱の漂涛物を充てられる。


其後、勅を以て、同郡曲村田地、四拾町修造料と為す。

当社亦、これを與う。

又、圭田、貮町を寄せられ、今、社東の田字、御田及び御園と称するは古の遺名なり。


又、毎年、正月七日、九月廿九日、宗像末社の神座を本社に於いて設け、神饌一百八膳を献じ、又、三月八日より同十五日に至り修法ありて、之を為す。

恒例の神事宗像大官司家、世掌礼典甚だ厳かなりと云う。

天正十五年豊臣関白、九国、征伐の時、悉く神田を没収す。これより以後、神殿、傾覆し、神人、緇素、四方に散去し空しく神体佛像を岩窟中に遷し奉りて、祀らず。

 

年ありここに於いて、元禄年中に至り、村民等、旧祠の廃絶を嘆き、再造の志を企て、僅かに、一宇の祠を造立し、二祀を再興し、国家の為、永く擁護の神力を懇祈し、黎庻の為恢く発願し、快楽の誓いを弘め、今に一百有余年、祭典、闕さず幣帛、増加して惟れを伏す。

大神園を造るの勧めあり。

則ち、天下蒼生孰く其の恩光を戴かず。嗚呼、神の徳上下を徹し遐〇を隔てず、爰に感じ、爰に応じて鎮まる。

国家、群生を護るや 大なり。

誰か神風の余化を仰がざらんや。


(〇は該当する漢字が分からなかった)
靈踨 (霊の跡。神の力の跡ということ)
嵓(けわしい)
曽(かつて)
曩に(先に)
涛(おおなみ)
與(与えるの旧字)
奠(典)
緇素(しそ。僧俗)
一宇(一棟、1軒)

 

 

 

( つづく )

 

☆このシリーズのまとめ

 

 

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