《 和也 》
伊豆の古い山道を、和也はかなりのスピードで愛車のクーパーを走らせていた。
市街地を過ぎて国道を逸れ、山道に入って15分ほど。
小型車が2台すれ違うのがやっとの曲がりくねった細い道、おまけに初夏のこの時期、左の土手上からは重たそうに青々と葉を繁らせた木々が枝垂れていて、視界が悪いことこの上ない。
(…!! くっ…)
急な左カーブを切った時、助手席の荷物がずり落ちそうになり、思わず差し出した右手につられて、左手のハンドルが大きくぶれてしまった。
慌てて両手で立て直したが、危うくむき出しの土手で車体を擦るところだった。
(まったく!)
悪態をつきながらもスピードは落とさない。ひびわれた古いアスファルトから小石が跳ねて、車体を弾く音がする。
ひと月前、6月の29歳の誕生日に買ったばかりのクーパーの艶やかな濃紺のボディーには、きっと小さな傷が無数に付いているに違いない。
明日、東京に帰ったら、すぐにメンテしなければと唇を噛む。
(まったく、もう!)
再び呟いた時、ようやく森が開けた。
樹木に覆われて薄暗かった風景は一変して、夕日に輝く海原が眼前に広がった。 何度見てもこの景色には心を奪われる。だが、今はゆっくりと眺めている場合ではない。死にかけている恋人を一刻も早く救済しなければ。
和也は、陽光煌めく夕暮れの海には目もくれず、ひたすら前を見据えていた。
画家の3歳上のパートナーの智から『死にそうだ。助けて』とSOSのメールを受け取ったのが、3時間前の午後2時。
『すぐ行く』
一言だけ返事を返し、勤務先のウインドーディスプレイ施行会社のオフィスで、作りかけていた見積書を大急ぎで仕上げ、依頼主のショップへメール送信すると同時に、上司に頼み込んで早退した。そして、デパ地下で救命物資の食料を買い込んで愛車に飛び乗ったのだった。
(智、もうすぐ着くから待ってて)
和也は、アクセルを尚も踏み込んだ。
久しぶりに会う恋人。
どうしても綻んでしまう横顔を、沈みゆく夕日が柔らかいオレンジに染めていた。
エンジンを止め、かさばる荷物を両手に車を降りる。
智が数年前からアトリエとして使っている、海に面した崖上の別荘地の小さなコテージは、いつもと変わらずそこにあった。
管理会社が定期的にメンテナンスをしてくれているので、外観はおとぎ話の白雪姫の七人の小人が住んでいるかのような、可愛らしい丸太小屋の体を保っている。だが、中にいる智はきっと悲惨な状態になっているはずだ。
まだ海の季節には早く、辺りに点在している他の建物は明かりもなく物音も聞こえない。そして目の前の、中に人がいるはずの建物の小さな窓も真っ暗だった。
静寂の中、風に運ばれてくる潮の香りに包まれてドアに近づく。ノックは多分無意味だろう。和也はそのままドアノブのキーホールに鍵を差し込んだ。
(…え? ウソだろ?)
鍵までもが無用だった。開錠することなくノブは回りドアが開く。
明かりの点いていない狭い玄関に足を踏み入れ、手探りで壁の照明スイッチを押す。
ふわりと柔らかな光がパッと室内を照らす。外観は丸太小屋でもリビングやキッチンなど、屋内は一通りの設備が備えてある。だが、外装に合わせた山小屋風の内装を、不粋な照明機器などで雰囲気を壊してしまわぬよう、照明は全て工夫を凝らした間接照明になっており、他の家電も全て木製のボックスに収納出来るようになっていた。
靴を脱いで幅広のオーク材の床を静かに歩き、誰もいないリビングを抜けキッチンに荷物を置いた。智がいるはずの奥の作業部屋からも、物音一つしない。
「…智、いる?」
何となく不安になり、忍び足で奥に向かう。作業部屋のドアは少しだけ開き中から明かりが漏れている。
「…智?」
そっと中を覗く。
途端に目の前に大海原が広がった。
静かな朝の海、明るい真昼の海、夕暮れの海、真夜中の海、雨が降り注いで波紋が広がる薄暗い海、荒れ狂う嵐の海…。