その夜、椎名は自宅の書斎に籠り報告書を作成し、兄弟に関するこれまでのデータをディスクに落とし込んだ。
両親の資質を確実に受け継いでいる二人は、身体的能力の全てにおいてずば抜けていた。特に智の数値は素晴らしかった。これを見て上層部が下す判断は明らかだ。やはり、避ける事は出来ない。ドアをノックする音がした。
「入っていい?」
「ああ」
コーヒーを手にいずみが入ってきた。
「終わった?」
「今済んだ」
「仕事が終わった割には暗い顔ね」
カップを受け取りながら椎名は力なく微笑んだ。
「あまりにも見事な結果だ。彼らの運命は変えられない」
「…そう」
「せめて…」
はっとして次の言葉を飲み込んだ。
「せめて、何?」
「い、いや、何でもない」
頭に浮かんだ考えに驚愕した。自分は無意識に何を言い出すつもりだったのか。慌てて飲んだ熱いコーヒーが喉に染みる。
(俺は感傷的になっているだけだ。冷静になれ)
椎名は、自分に言いきかせた。
翌日、椎名は森の向こうに見えていた建物の最上階に向かった。いくつかのセキュリティを通り過ぎ、五階に上がる。表示のない重厚なドアの前に立つ。最大の関門は、中にいる秘書の石野だ。ふうっと息を吐いてドアをノックした。
「あら、椎名さん、お久しぶりね。何だか、顔色が冴えないわね。寝不足ね」
石野がにこやかに迎えてくれた。
「いえ、そんな事はないのですが…」
「新婚さんだからって無理をしちゃだめよ。男は何に対しても体が資本ですからね」
微笑みながらも眼鏡の奥の目が瞬時に椎名を検分している。
「ボスから聞いてますわ。中でお待ちですよ」
前に立って奥のドアまで案内してくれた。どうやら、審査にパスしたらしい。
「ボス、椎名さんがお見えです」と声をかけ、
「どうぞ」とドアを開けてくれた。
「失礼します」
「やぁ、久しぶりだな、どうだ? 新婚生活は」
大きなデスクの後でボスの藤城が立ち上がり、右手を差し出した。
「その節は色々とお世話になりました」
椎名は前に進み出てデスク越しに藤城の大きな手と握手を交わした。60歳をとうに過ぎているはずだが、握った手の若々しさと力強さは昔から全く変わらない。
(この二人は、もう、半分妖怪化している)
ここに来るたびに椎名が持つ正直な感想だ。
勧められてソファーに座ると同時に、資料を取り出した。早くこのねっとりとした独特の空気から逃れたかった。
「これがこの前お話しした子どもたちの資料です」
書類を渡し、パソコンにディスクをセットし、二人の分析結果を表示した。
「ほう…」
藤城が感嘆の声を上げた。
「まだ、八歳と五歳で、特別な教育を受けたわけでもないのに、この結果はどういうことだ?」
示された数値を鋭い目で読み取りながら尋ねる。
「おそらく、天性のものだと思われます。両親とも大変優秀な人物でした。これから、適正な教育を施せば、二人を大いに上回る優秀な隊員になる事は間違いないでしょう」
「そのようだな」
藤城は黙りこんだ。その頭の中はいかにしてこの二人を組織の優秀な歯車として育てあげるかを考えているに違いない。鋭い目は獲物を前にした猛禽類のように輝いていた。
(これでいいのか? これしかないのか?)
石野が紅茶を運んできた。
「どうぞ、あら、お二人とも難しい顔をなさっているのね」
「ありがとうございます」
「石野君、これをまとめて、プランを立ててみてくれないか。そうだな、二日もあれば十分だろう?」
藤城が満足げな表情で、取り出したディスクと資料の入った封筒を渡す。
「かしこまりました」
石野はそれを受け取ると、
「頂いてまいりますわね。ボス、久しぶりにいい笑顔をなさっていますわ」
と意味ありげな笑みを残し部屋から出ていった。椎名は激しい後悔に苛まれた。額から冷たい汗が噴き出す。
(もう、遅い。もう、引き返せない)
落ち着こうとティーカップを手に取った。だが、カップはソーサーに当たり、大きな音を立てた。藤城が、一瞬嘲りの表情を浮かべて椎名を見た。
「君は、大変優秀だが人間らし過ぎる所が今ひとつ、自身の成長を妨げているな」
対照的に優雅な所作で紅茶を飲んでいる。限界だった。
「私は、心を捨ててまで成長しようとはカケラも思っておりません」
そのまま目を合わさぬよう、さっと立ち上がると、
「失礼します」
とドアに向かった。
「また連絡する。奥さんによろしくな」
言葉を遮るようにすばやくドアを閉めたが、最後に耳に届いた含み笑いは鼓膜にこびり付いてしまった。
「あら、お帰りですか。ますます、顔色がお悪いですわ。薬局でアスピリンでも処方してもらったら良いんじゃないかしら」
石野の声が後を追う。
椎名は無言で部屋を出た。ネクタイを緩め足早に歩く。むかつく吐き気を押さえるのは容易ではない。早く外に出たかった。
(何にそんなにイラついている? ボスか? 石野か?)
わざと自分に問いかけたが、答えは分かっていた。自分だ。二人をこの世界に引きずり込んでしまった自分自身だ。明るい日差しの中に出たとき、めまいを感じて遊歩道脇のベンチにどさりと座った。
(じゃあ、俺は、一体どうすれば良かった?)
唇を噛み、出てきた部屋の窓を見上げる。目が潤む。その涙が憐憫か後悔か軽蔑か危惧か、それは分からなかった。ただ、泣けてきた。
続く…。