椎名はPHSでモニタールームの看護師に指示を与えた。素早く対応した看護師が頷いて合図を送る。それを確認して智に囁いた。
「智、もう一度耳元でそっと呼んでみろ」
「うん…、潤、潤、僕だよ。智だよ」
脳の状態を示すモニターを見つめる。
「先生、また握った!」
「ああ!」
椎名は興奮した。前頂葉から前頭葉にかけて、微かではあるが、明らかに反応している。
「よかった…、よかった」
智の頬を涙が伝う。
「よし、今日はここまでにしよう。あまり急がせると潤が疲れてしまう」
智は何度も頷きながら滅菌服の袖で目を拭った。マスクの中も鼻水でぐっしょりになっていた。
「さ、外に出て」
そっと背中を押す。智は看護師に連れられてICUを出て行った。
(よかった。これ以上あの子を悲しませるのはごめんだ)
小さな背中を見送ってから潤に顔を寄せる。額に手を置くと、
(潤、頑張るんだぞ。お前がお兄ちゃんの支えなんだからな)
と心で語りかけた。
潤の回復は目覚ましく、初めて指が動いた日から10日の内にベッドに起き上がれるようになった。元々外傷は少なかったので、脳の機能が回復しさえすれば、後は体力を取り戻すだけだ。
5日後にはICUを出て、兄弟で同じ部屋にいられるようになった。 最初の数日は嬉しくて仲良くしていたが、日が経つにつれ、喧嘩が絶えなくなってしまった。退屈な病室の中、争いの種はたくさんあった。
その日も些細なことで喧嘩が始まった。だが、何が原因で始まっても、結末は同じだった。
「お兄ちゃん、僕もういやだ。おうちに帰りたい。いつまでここにいなきゃいけないの?」
「だから、言ってるだろう? うちに帰っても誰もいないんだって。お父さんもお母さんも外国の病院に入院してるんだから!」
「交通事故なんて、僕、知らないもん」
「潤は寝てたから解らなかっただけだ。お母さんが助けてくれたから、それくらいのけがですんだんだぞ!」
「だって、だって、お母さんに会いたいもん!」
「…」
泣きながら潤が訴え、智が絶句して喧嘩は終了した。
喧嘩の後で潤はリハビリに呼ばれ、涙を拭き拭き出て行った。一人でベッドに座っていると椎名が入ってきた。
「どうだ、体の調子は?」
「…最悪」
ため息と同時に出たその返事に、椎名がポケットから手を出して頬に触れた。相変わらず温かい。
「…熱なんか無いよ。…先生、僕、このままだと潤に言っちゃいそうだよ」
「その事か…」
「先生は肝心な事は何にも教えてくれない。前、明日のことは体が元気になってから考えればいいって言ったよね?」
暗い表情で椎名を見上げる。
「…ああ」
「僕、元気になったよ。潤だってすっかり治ってる。生意気なとこなんか前よりひどくなってるみたいだ」
智はベッドから降りると松葉杖無しで歩き、窓の前に立った。
「ここは何処? なぜ普通の病院みたいに外から人が来ないの? なぜテレビとか本とか自由に見れないの? それに…」
ぱっと振り向き窓の外を指さす。
「なぜ、向こうの建物には子供がいっぱいいるの?」
椎名は横に並んだ。小さな森の向こうに四角い建物が見え、目を凝らすと、確かに中に子供の姿も見える。
「気づいていたのか」
「分かるよ。すること無いし、外にも出られない。ここから外を見るしかないもの」
すでに二人がここに来て、1月半が過ぎようとしている。限界のようだ。この兄弟が生きていかねばならない世界に送り出す時が来たらしい。覚悟はしていたがやはり切ない。
椎名は床に膝をつき、智と視線を合わせて両腕をそっと掴んだ。
「お前は強い子だ。この先、お前たちに起こることを冷静に受け止めて欲しい」
「…え? …う、ん」
智は椎名の真剣なまなざしに、戸惑いがちに頷いた。
「これから俺はお前たちに関する報告書を作る。それをお前の両親のボスだった人物が読む。それからの事は…すぐに分かる」
静かに告げた。智の表情がパッと明るくなった。
「ここから出られる?」
「ああ、多分な」
「やったぁ!」
無邪気に喜んでいる智に、その先に今までとは全く違う世界が待っているのだという事を告げることは出来なかった。
続く…。