天下人と京都の関わりは、秀吉が関白として聚楽に住み、都市を開発するなど、関わりは深いものの、信長はほぼ京都に滞在しませんでした。

全国を統治する行政機構は伏見にありました。

二条城にいても、家康は儀礼しかやることがありませんでした。

要塞としても、軍の駐屯地としても武家の都伏見の方を重要視したと考えられています。

国内初の銀座を設け、木製活字の書物も出版させ、経済や文教の製作にも着手しました。

 

徳川家康は二条城を再建しますが立ち寄った気配がありません。

では、京都上洛の際にどこにいたのか、、

それは、伏見でした。


家康は1590年の関東転封から1616年まで死去の9670日の4分1にあたる2587日を京都で過ごしました。

 

家康は関ヶ原の戦いに勝ちましたが、福島正則や加藤清正など大領土を得た豊臣恩顧の大名がいましたので、西日本の大名を監視、その動向を抑える意味合いもありました。

 

秀吉は伏見を武家の都として位置づけて、現に五大老を伏見に置き、伏見には武家政権がありました。秀吉も拠点の大阪、京都聚楽を行き来しました。


再建した二条城は貴族殿、儀礼的なときを除いてほぼ、この城には寄り付かなかったと言われています。

 


 

 

 


エース山本、山崎福也が移籍したため、オリックス4連覇の行方は、、』ですが、わたしはありえると思います。

もともと、オリックスはよいピッチャーを育成するのがうまいチームです。

数年前に宮城、田嶋等ドラフト上位で獲得したピッチャーが戦力になっています。

四番の吉田正尚がメジャー移籍でいなくなり、危惧された得点力も西武から移籍してきた森選手、台頭してきた頓宮選手がその穴を埋めつつあります。

4年前の優勝のときに比べると、現在主力の中川圭太、紅林選手はレギュラー格ではありませんでしたが彼らがチームを牽引しつつあります。

昨年終盤後半、怪我人が出たのが気がかりですが今年はそうならないように準備してると思います。


 

戦国時代を生きた真田昌幸は武田信玄の愛弟子でした。
昌幸は信玄の兵法を受け継ぎ、師匠の信玄から、「我が目である。」と言われました。

武田家がそのまま存続していれば昌幸は重臣として一生を終えたでしょう。

しかし、勝頼の代になり、武田は滅亡。
 

小大名である真田家は武田家滅亡後、北条、徳川、上杉と主君を次々替えます。

時代を生き抜く所業とはいえ、その処世術から、「表裏卑怯の者」と秀吉から言われます。

 

次男信繁は上杉の人質になったこともあり、越後で過ごします。

詳細はわかっていませんが俸禄をもらっていたことは明らかで上杉の家臣として期待されて

いたのです。

 

のちに上杉が豊臣に臣従したので信繁は今度は秀吉に仕えることになります。

 

なんと秀吉から豊臣の姓も与えられました。

 

父親は武田信玄の弟子でありながら、自らはそのライバルの上杉に仕え、

最後は豊臣に使えます。

 

真田信繁は大阪の陣で大暴れし、最大級の働きをします。

安井神社で休憩していた所を討ち取られます。

 

享年49歳


 

 

豊臣秀吉は政宗に毒殺されかかった蒲生氏郷の手前もあり、

米沢など政宗の所領5郡を没収し、

木村吉清に与えて葛西、大崎に国替えをします。

 

大崎吉清が、30万石に襲封されると伊達政宗は一揆を扇動し、統治が失敗

するように仕向けます。

 

政宗が行ったのは領国拡大を狙う局地戦です。


独眼龍と呼ばれ天下統一を夢見たという政宗の人物像とはかけ離れています。

 

伊達政宗は天下を夢見る発想はなく、むしろ、奥州全域を支配に置き、天下人たる人物に

プレッシャーを与えようもしたのが実状ではないでしょうか。

 

豊臣秀吉は政宗が葛西、大崎で一揆を扇動したことを不問に付します。お互いに頭が切れ、派手好き者同士で気があったとも言われています。