秋の爽やかな日、日本海、城崎温泉も近い兵庫県豊岡市の但馬空港に行ってきました。

その景色を綴ります。

 

 

 

 

空港内の天井にレプリカが吊り下げられています

 

 

 

 

吉永小百合さんが主演した夢千代日記の舞台、湯村温泉の近くです。

 

 

今年、五月晴れの春の一日、神戸六甲山にある布引ハーブ園に、新神戸駅から布引の滝、貯水池を通って登山道を登り行きました。

いろいろなハーブの爽やかな香りで癒され、その時の思い出を綴りました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回に引き続き、リチャ-ド・バック著「翼の贈り物」から「黒猫」を紹介します。

十月の寒風の吹き付ける中、アメリカ戦術戦闘機大隊・第167隊の旧式F84サンダ-ストリ-ク27機は、フランスの基地に着陸します。

隊は1944年頃、P47サンダ-ボルトでルフトバッフェのフォッケ・ウルフやメッサ-シュミット109と黒猫のシンボルマ-クと共に死闘を繰り広げた歴史有る部隊で15年間に及ぶ就役停止から復帰し再びヨーロッパの空へ戻ってきました。

パイロットの殆どはまだ経験が浅く、大隊の着陸完了を見届けて、大隊長はつぶやきます「あの連中の何人か、山の斜面に散乱する羽目になると考えざるを得ないね。そんな光景を見たくないものだ・・・・・」

滑走路の先端の深い叢の中で、全機が着陸を終えるまでの3時間もの間、じっと見届けていたもう一つの眼差しがありました。

灰色のペルシャ猫が近くを飛来して着陸するジェット戦闘機のつんざく爆音を物ともせずに座っていました。

大隊の飛行開始・待機位置路上で、三日間に一度彼らは一つの儀式をこなさなければ飛び立つことを許されませんでした。

作戦将校の提出された計器飛行のクイズに回答しなければならないのです、設問は二十項目、間違いは一つだけ許され出来なければ計器飛行の教本を手にしたまま飛行列線に三時間待機させられ再度のチャレンジをします。

時が経ち、彼らのパイロットとしての技量も知識も慣熟し、三時間の待機はほぼ稀になっていきました。

ハインツのF84での飛行時間は60時間になっていました。エンジンをスタ-トさせタキシングを開始した時、爆音の中に異常な雑音を耳にします、少し気にしながら離陸準備に忙殺されている最中、滑走路の先端に平然と座っている灰色のペルシャ猫が目に入ります。

準備が完了した時、何故かマイクのボタンを押し僚機に話しかけていました「滑走路の端に猫がいるぜ・・・」

飛び立って八分後、エンジン加熱の警告灯が点燈し、毎分回転数増加、燃料の流出、尾部から発煙が発生します。

しかしハインツは何とか機を着陸させられると信じ誘導して行き、緊急脱出の最低高度500フィート点を通過します。

高度400フィートを通過し、降着装置を出し脚注をロックしますが、さらに発煙がひどくなり爆発の危険性が高くなっていく状況の中で、突然彼は油圧計がゼロであることに気づきます。エンジンが停止したのです。

操縦桿はこちこちになり、飛行姿勢の制御はできない状態になりました。ハインツの脳裏に地面にたたきつけられる光景がよぎった時、危険な状況になっていることを知らない管制官が穏やかな声でマイクに向かって言います。

「滑走路に猫がいるぞ」

この言葉は、突如きらめく閃光となって赤いスイッチの存在になりハインツを襲います。

「緊急油圧ポンプだ」

機は高度100フィートで横転を開始していましたが、操縦桿は速やかに息を吹き返してきて、並走する消防車の前にあざやかな着地で滑走路に降り立ちました。

部隊の中では縁起のいい猫となります。

ときたまパイロットが悪天候の中から調子の悪い機をつれて帰って来た時に、「猫いるかい?」と管制官に問い合わせます。    すると、管制官は滑走路に双眼鏡を走らせマイクに告げます。

「いるぞ」

そして飛行機は着陸して行くのでした。

 

画はF84Fサンダ-ストリ-クです

 

資料

リチャ-ド・バック著 新潮社刊 「翼の贈り物」

 

 

飛ぶことを追求するカモメを描いた小説「カモメのジョナサン」は1970年代のベストセラ-となりました。

その著者リチャ-ド・バック氏の「翼の贈り物」も大空を飛行する素晴らしさを描いた短編小説集です。

その一遍「ペカトニカの淑女」から飛翔を描いた部分を紹介します。

ある年の夏、イリノイ州ペカトニカで巡業飛行をやっています。

その日、日没までに三十人の客を乗せ、暗くて飛べなくなるまでに、あとひと飛び出来る時間があります。

観衆に向かって叫びます。

「あの夕日を見てごらんなさい、大空からごらんになったら、二倍も美しいですぞ!・・・・あのど真ん中にいけますよ!」

彼らの心を動かそうとしますが、あきらめエンジンを始動させ、自分と複葉機、二人だけで日没を見るべく飛び立ちます。

上り続け、約四千フィートの高度で上昇を中止、ここから眺めやるだけの飛行ですまなくなります。

「機首は上がり、右翼は下がる。動力停止の急上昇反転(ウイング・オーバ-)に入り、宙返り(ループ)して、連続横転(バレル・ロール)に移る。降下する際に、銀色のプロペラは真正面でゆっくり回転するただのファンにすぎぬ。

・・・・宙返りや横転の底に達したときに生ずるあの大氣の悲鳴の中で、澄んだ風がわれわれの周辺に渦巻く。そして、ほとんど停止状態にある無精な失速大旋回中の上を、風は軽やかに、やさしく流れ去って行く。」

やがて、二人だけの世界は終わります。

「翼を水平に戻し、海の底へと滑空して行った。黒ずんだ草地へ着陸するために。」

「スイッチを切る。プロペラは悲しげな音をたてながら、回転を中止する・・・・」

画はステアマンPT17です。

 

 

 

 

 

流転の記録、愛新覚羅浩さんの述懐を織り込み紹介します。

昭和十一年の春、二十三歳になった嵯峨侯爵家の長女、浩は清王朝の流れを汲む満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟である溥傑(ふけつ)と結婚します。これは日本が占領した満州国を統治するための政略結婚でしたが、溥傑氏の人柄に惹かれ次第にお互いに掛け替えのない仲睦まじい夫婦と成っていきました。長女の慧生(えいせい)、次女の嫮生(こせい)、二人のお子さんにも恵まれ暫らくは日本で暮らしていましたが、昭和十二年に学習院大学に通われていた慧生さんを残して三人は満州国の首都、新京に移り住みます。

この頃すでに、中国に進出した日本と中国との間で紛争が起きていて、二人は戦火の渦に巻き込まれていきます。

8月10日にはソ連から宣戦布告を受け、既にソ連軍が目前に迫っていて首都・新京を離れなければならなくなります。

降りしきる雨の深夜十二時、列車に乗って出発します。

「私たちが後にしようとしている満州国の首都は一瞬その終焉を告げるかのように電灯を消し深い闇に沈みました。列車は悲鳴のような汽笛を黒いとばりを下した新京の街に響かせ一路南を目指してひた走るのでした」

朝鮮との国境近くの山間の村、大栗子(ダーリ-ズ)で過ごし八月十五日の終戦を迎えます。

満州国皇帝溥儀の退位式が行われ、日本への亡命を決意します。溥儀と溥傑は家族に先立ち再会を誓って、日本に向かいますが、その行動がソ連軍の知るところとなり捕らえられ抑留されてしまいます。

残された一行はそのまま過ごしていましたが、暴民たちの掠奪や強盗、ソ連兵の暴挙などからの逃避行が始まります。

やがて共産軍が進軍してきて、これ以降共産軍の管理下におかれますが更なる流転が続きます。

通化(トンホウ)へ向かうことと成り、真冬の険しい山道をフルスピ-ドで走るトラックに揺られます。途中通過する道では、谷底に転落したトラックが横転しその周りに黑い死体が散乱している情景を目にします。

「寒さは並大抵のものではありません。私は歯の根が合わず震えるばかりで嫮生の身体をきつく抱きしめながら、一時も早く通化への旅がおわってくれることばかり考えていました。」

三日目の夕方、通化の町に着くと共産軍の公安局の一室に閉じ込められそこで拘留されてしまいます。

少しの間何事もなく過ごしていましたが、関東軍の残存部隊が、通化奪回を企て公安局を襲撃してきます。眠りについた真夜中、突然男が飛び込んできて部屋の中が戦場になります。「窓からは銃弾がひっきりなしに飛び込んでくるので、顔を上げることさえ出来ないのです。そのうち砲弾が落下しました。耳をつんざくような爆発音とともに爆風が襲い、空中に体が投げ出されるような衝撃につつまれます。機関銃の一斉射撃はいつ果てるともなく続き・・・手りゅう弾の炸裂音が轟いてきました。神さま、仏さま私は恐ろしさに息も絶え絶えになりながら、嫮生を抱きしめていました」

この時、皇帝の老乳母が砲弾の破片で右手首を吹き飛ばされ「痛い痛い」と喘ぎながら亡くなっていきました。

「私たちは壁に穴が開き砲弾の破片が散乱した公安局の部屋で、零下三十度の寒気に震えつつ、一週間も暮さなければなりませんでした。川岸の方からは二日間にわたって、銃声が聞こえてきました。その銃声がきこえてくるたびに、心臓が締め付けられるような思いで、耳をふさぎました。」

この後,何度も移動し留置場や囚人房に閉じ込められ厳しい訊問が長期にわたり執拗に続けられます。

国民党軍に追われ延吉への移動は過酷なものでした「私たちは歩くというより走らされました。私と嫮生はどうしても遅れがちになるので、見かねた八路兵は嫮生の両腕を自分の腕にひっかけ、ちゅうぶらりんのまま、どんどん走って行ってしまうのでした。・・・・ようやく吉林駅に着いたとき、私は何百里も歩き続けたような気がしました三等車の座席を取り払った軍隊輸送車に乗り込み、嫮生の身体をしっかり抱いた瞬間、私は嗚咽がこみあげてくるのを抑えることができませんでした。」

更に、日本への引き上げを目指す一行として錦州へ移動する時には

「逃避行も有蓋貨車から豚や牛を運ぶ貨車、そして今度は石炭や砂利を運ぶ無蓋貨車と、時を経るにしたがい惨めになっていきます。次は原木を運ぶ裸の貨車かしら・・・・私はひとりでそんなことを考え、おかしくなりました・・・

途中、鉄道のレールは破壊されていて遠い距離を歩かなければなりません。馬小屋に泊まったりして死ぬような思いで二日間歩き続け、ようやく両軍の対峙する無人地帯を通り抜けてほっとしたのも束の間、今度は国民党軍がやってきて、女をよこせと要求しました。」

そのあとも紆余曲折があり、流転の末にたどり着いた上海の地で引き揚げ船に乗ることに成ります。

「最後の引き揚げ船ということで人と荷物で身動きがとれない程の船室で嫮生を抱いたまま、やっと訪れた平和の味をかみしめていました。思えば一年と四か月あまり前、夫と大栗子で別れて以来、私は嫮生の手を引き、中国大陸のなかを追われるようにあちこち流転を続けてきました。この間、銃火に命をさらし、飢えと寒さに苦しみ冷たい監獄の壁のなかでうちひしがれました。・・・私には慧生(えいせい)と嫮生(こせい)という二人の娘がいます。その二人には中国と日本の血が流れています。・・・・自分の娘たちを中国と日本の懸け橋にしようと思いました。中国大陸で散った両国の人たちの霊をとむらうためにも、私はこの意志を娘たちに伝えていきたいと思いました。」

親子三人で戦後の混乱の中、慎ましく過ごす日々が続きます。

そうしたある日、長い間消息の分からなかった夫、溥傑氏からの突然便りが届きます。

それは娘の慧生から、時の総理・周恩来宛てに差し出された一通の手紙から始まったものでした。

「拙いながら、日本で習った中国語で手紙を書いております。父溥傑の消息は、長らく途絶えたままで、母も私たち娘も大変心配しております。・・・たとえ思想がちがおうと、親子の情に変わりはないと存じます。周恩来総理に、もしお子さまがおありになるなら、私どもが父を慕う気持ちもおわかりにいただけるのではないでしょうか。・・・・・・・・

どうか、お願いいたします。この手紙と写真を父にお届けください。」

家族が夫の待つ中国に帰ることになったのは、昭和三十六年、十六年ぶりのの再会でした。

しかしそこには娘の慧生さんは居ません、志半ばで不慮の死を遂げられたのでした。

夫妻は浩さんが亡くなるまでの17年間を仲睦まじく過ごされ、今は下関の中山神社に慧生さんと、三人一緒に眠っています。      

嫮生さんは日本に戻り結婚され子供にも恵まれました。

清朝直系の血は絶えることなく、受け継がれています。

画は常盤貴子さんが演じた流転の王妃・愛新覚羅浩です。

 

参考資料  新潮文庫「流転の王妃の昭和史」

              愛新覚羅浩 著

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一次世界大戦ヨーロッパの空、一人の日本人エースパイロットが誕生しました。

バロン渋野こと渋野清武は、当初音楽家を目指し山田幸作のすすめもあり東京音楽学校に入学しコルネットを学び、その後フランスに留学します。その頃ヨ-ロッパの空ではブレリオ XIがドーバ-海峡を初めて横断飛行に成功し、渋野が渡仏した年1910年には徳川 好敏大尉が飛行機の操縦技術を習得する為にフランスに滞在しています。彼はその年に帰国して日本で初めての飛行に成功しました

渋野の興味も音楽から飛行の世界へと注がれるようになり、数々の飛行学校で操縦の技術を習得し飛行家への道を歩み始めます。

帰国後、日本陸軍の飛行教官となります。

陸軍航空隊には、徳川大尉がいましたが、彼との軋轢もあり僅か2年の滞在で再びフランスに渡り飛行学校に入校します。

第一次世界大戦が始まり、その飛行技術が認められ、フランス陸軍航空隊・エース部隊(コウノトリ部隊)で戦いエースパイロットの一人となります。

戦歴に対してレジオン・ドヌ-ル勲章、クロワ・ドウ・ゲール勲章を叙勲しました。

終戦後帰国しますが42歳の若さで亡くなっています。

長男は彼の音楽家としての才能を引き継ぎジャズピアニストとして活躍しました。

搭乗したのはスパッドVII、ちょっとずんぐりしたデザインからの印象で第二次世界大戦のP47サンダ-ボルドの重戦闘機を思わせますが、実際には同時期の戦闘機と比べてそれほど大きくはありません。    格闘戦では急降下の時、追尾する敵戦闘機が空中分解する程の速度・荒業で逃げ切るという、速度と頑丈さを備えていました。

 

1897年7月24日誕生。

母方の祖父は銀行の頭取だったため、裕福な家庭で幼少期は祖父母と一緒に暮らしました。

やがて第一次世界大戦が始まり、アメリアは高校を卒業しカナダの陸軍病院で看護助手として働きます。

1919年には医学を学ぶためにコロンビア大学に進学しますが、両親のカルフォルニアへの引っ越しについていくために大学を中退してしまいます。

飛ぶことに魅せられるのは20歳の頃、1920年トロントで開催された航空見本市での華麗な曲技飛行を見た時からでした。

その後、パイロットになるため電話会社・トラック運転手・速記・カメラマン・砂利運搬などの仕事をしながらレッスンを受け、半年後に当時100人程いた女性パイロットの一人と成りました。

25歳の誕生日に飛行機を購入し、飛ぶ為に、前にも増して色々な仕事をしました。

しかし1924年に家族の財政的危機のために飛行機を売却、さらに両親の離婚で飛行から遠ざかることと成り、ソーシャルワ-カ-として働き始めます。

転機は1928年に訪れます。

鉄鋼王の妻が「初めて飛行機で大西洋を横断した女性」(乗客として)になるためのプロジェクトを進めていました。

しかし夫に反対されて、代役を探していたのです。

アメリアは電話で「大西洋を飛んでみたいですか?」と尋ねられます。

アメリアが選ばれて1928年6月フレンドシップ号で、乗客としてですが、初めて大西洋を横断した女性となりました。

客船でアメリカに戻ったアメリアは大歓迎を受け、ワシントンDCのホワイトハウスでレセプションが行われました。

これ以降は多くのスポンサ-がつき、飛行家として活躍していくことに成ります。

1932年5月リンドバ-グと同じルートでパリを目指します。アイルランドのロンドンデリ-近くの牧場に不時着しましたが、女性初の大西洋単独横断飛行となりました。

同じ年の8月、ニュ-ジャ-ジ-州ニュ-アークからロサンゼルスまでの女性初の米大陸単独横断無着陸飛行に成功。

1935年1月、ハワイからカルフォルニア州への単独飛行に成功。

その他にも、沢山の記録に挑戦し成し遂げています。

 

そして1937年ロッキ-ド・エレクトラ10Eで赤道上世界一周飛行に挑戦します。

6月1日にマイアミを出発して南米~アフリカ~インド~東南アジア~オーストラリアと飛行し、7月2日ニュ-ギニアのラエを出発ホノルルの手前のハウランド島(無人島)に向けて飛び立ちました。飛行予定時間は約18.5時間。

天候は時々雨が降り、厚い雲が垂れ込めていました。

天測航法が使えず、無線通信も受信困難、方位を割り出すのが困難な状況でした。

この時アメリカ沿岸警備隊の巡視船がアメリア達の飛行支援の為にハウランド島周辺で待機していて、離陸してから19時間半後に無線を傍受しています。

「巡視船イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません。燃料は不足しています。あなたたちからの無線通信も聞こえません。高度1000フィ-ト(300m)を飛行中」

その1時間後、最後の無線を傍受します。

離陸してから20時間半経っていました

「私達は今、157°-337°線上にいます。6210キロサイクルでこのメッセ-ジを繰り返します。聞き続けてください」

 

この後消息は途絶えてしまいました。

捜索はアメリカと日本の両国により大掛かりに行われ、山本五十六は日本海軍にできる限り協力するように指示をしています。

 

アメリア・イヤハ-トは沢山の勇気をくれる行動と言葉を残してくれました。

 

「沢山行い、見て、感じるほど、もっと多く行動できるようになる、家庭、愛、そして友情への理解などといった一番大事なことに対する感謝の念がより純粋なものになる。」

 

「最も難しいのは実際にやると決断することで、後はただただ執念のみです。」

 

「あなたはあなたが決めたことをなんでもできるのです。

あなたは変革と自分の人生をコントロ-ルするために行動できるのです。

そのプロセスがあなた自身へのご褒美なのです。」

 

両親には、その決意を手紙で送っています。

「私の人生はとても幸せでした。だから、これで終わりだとしても、全く悔いはありません」

「最後の大冒険に万歳!これで成功できれば言うことはなかったけれど、挑戦できて本当に良かったです」

 

参考資料

WONDIA(オカルト・不思議ネタまとめ)

私らしく(私が私であるための特別なコトバたち)

 

 

ドイツ空軍のサン=テグジュペリらしき機体を撃墜したという幾つかの情報もあり、機体捜索は何度か行われました。

 

程無く彼の没後50年という1992年、タイタニック号の船体調査も行った「フランス海底調査機関」がフランスのシャンペン会社のオーナ-から依頼を受けてカンヌ沖を捜索、その翌年にはトゥーロン沖を捜索しましたが、発見には至りませんでした

その後1998年、マルセイユ沖で操業していた漁師が偶然、引き上げられた網の中に銀のブレスレットが引っかかっているのを発見しました。   そのブレスレッドにはサン=テグジュペリと妻コンスエロの名が刻まれており、このことにより彼の墜落場所がある程度特定することが出来ることとなりました。

捜索の結果2003年9月にその残骸が引き揚げられ、これらの遺品は今、ル・ブルジュ空港内の航空宇宙博物館に展示されています。

 

1943年、彼はアメリカからアルジェに渡り原隊に復帰しますが、その時の彼は今までの墜落事故からの後遺症で、始終船酔いの様な気分に陥り、昼も夜も耳鳴りが止まず、いく晩も眠れない状況に苦しんでいました。

それでも戦場に向かい飛び立つ決意を妻コンスエロ宛ての手紙に綴っています。

「これまで---散々に苦労して---自分なりに戦ってきたぼくは出発する。---そうしなければならない義務があるのだ。

ぼくは戦争に出発するのだ。ぼくには飢えている者たちから遠く離れていることが耐えられない。僕の良心と折り合いをつける方法はひとつしか知らない。それは出来る限り苦しむことだ。(---中略----)現状では、2キロの包みを持つにも、ベッドから起き上がったり、床に落ちたハンカチを拾うにも肉体的な苦しみなしにはできないぼくだから、苦しみはたっぷりあたえられるはずだ。  僕は死ぬために出発するのではない。苦しむため、そうやって同胞と通じ合うために出発するのだ。僕は殺されることを望んではいないが、そんなふうにして眠りに入ることはよろこんで受け入れる      アントワ-ヌ」

 

サン=テグジュペリは、そっとしておいて欲しかったのではないでしょうか。

いつまでも地中海の水底で静かに眠っていたかったのではないでしょうか。

 

 

 

サン=テグジュペリが最後に操縦したのが、ロッキ-ドP38F-5B偵察機でした

 

 

1939年9月ドイツ軍がポーランドに侵攻し、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告します。

サン=テグジュペリは予備空軍大尉として招集されトゥールーズの基地に教官として配属されます。年齢は40歳、事故の後遺症もあり当然の措置でしたが、彼は進言をして偵察任務の操縦士として転属することになります。

1940年5月,ドイツ軍は怒涛の進撃を開始し、連合軍はダンケルクでの撤退に追い詰められ、彼の大隊では3週間のうちに23クル-(69名)いた隊員中、8割以上の17クル-(51人)が亡くなっています。

この時のサン=テグジュペリは7回の出撃を行っていて、危険な任務を遂行したことにより感謝状を授与されています。

この後、飛行大隊は後退を余儀なくされ、北アフリカのアルジェに移動しますが、フランスの敗退により動員解除となります。

彼はフランスに一時帰国しますが、アメリカで著書「風と砂と星と」がベストセラ-となり出版社の依頼を受け渡米、その後も「戦う操縦士」を書き上げ更にその名声を高めていきます。

1942年11月、戦況に変化が訪れ、連合軍は北アフリカに上陸します。そして彼は原隊に復帰する決意をし、1943年4月にアメリカ軍の護送船団に便乗してアルジェに渡ります。

以前所属していた飛行大隊はアメリカ軍の指揮下に置かれていて、搭乗者の年齢制限を30歳としていましたが、ここでも粘り強い嘆願をして43歳の年齢で搭乗を許されます。

用意されていた機体は新鋭のP38F-5Bライトニング戦闘機偵察型です。

事故の後遺症も癒えておらず、年齢的にも新しい操縦技術を身に着けて行くには難しく、慣熟するまでには相当な苦労が伴い、加えてアメリカ様式の生活が彼に苦痛を与えました。

3人同居の部屋、アルミニュ-ムの食器、立ったままの食事、共感できない音楽の趣味、スポ-ツやゲームのことしか話題に上らない若者たちとの時間、等々。

それらを経験しながらも1943年7月21日、第一回目の出撃で妹や母親の住む懐かしいローヌ河渓谷とプロバンス上空を飛行しました。

しかし7月31日、2回目の出撃で着地に失敗し機体の一部を損傷し、パイロットのメンバ-から外されてしまいます。

彼は失意の内にアルジェに戻り悶々と時を過ごしますが、程無くして、そんな彼を友人たちが救ってくれます。

地中海方面連合軍最高司令官から5回という制限付きの飛行許可を取り付けてくれました。

1944年5月に再訓練開始となり、訓練後フランス本土に近いコルシカ島の基地に配属されます。

そのころ連合軍は1944年6月6日、ドーバ-海峡を渡り北フランス・ノルマンディーに上陸、いよいよドイツ軍への反撃が開始されます。

更に南フランスへの上陸作戦が計画され、地域の情報収集として、航空写真撮影のための偵察飛行が行われることとなります。

サン=テグジュペリは約束された5回の出撃を瞬く間に消化、7月31日、制限を無視して7回目の出撃。

偵察飛行に飛び立ちますが、これが彼の最後の飛行となってしまいました。

この地域は彼が子供時代を過ごしたサン=モーリス・ド・レマンが含まれていました。

 

次回(4)に続きます

 

 

 

 

サン=テグジュペリは、結婚をして路線飛行士となり、マルセイユ~アルジェ間を飛びまわります、この時が一番幸せだったのではないでしょうか。

その時の飛行機がラテコエ-ル28でした。

 

 

 

サン=テグジュペリはキャップ・ジュビ-で一年半程、砂漠の中の静寂に包まれた世界で過ごした後、ブエノスアイレスの優雅で刺激的な世界に身を投じていきます。会社は更に南米路線網を拡大していて、その現地子会社の支配人となり1929年から1931年まで赴任し、この時に若き未亡人コンスエロと出会いフランスに帰国してから結婚します。

彼はこの頃から再び路線飛行士となりマルセイユ~アルジェ間水上飛行路線やカサブランカ~ダカ-ル間を飛び回ります。しかしアエロポスタルは財政危機となり破産し、アエロポスタル以外の航空5社が合併して1933年に誕生したエールフランスに合併されてしまいます。

因みにこの時代、欧州~南米路線はフランスとドイツが競い合っていて、ドイツは政府の後押しで航空会社が合併し、1926年にルフトハンザが誕生しています。

会社がエールフランスになってからサン=テグジュペリは採用を何度も申し入れますが派閥の策略でうまくいきません、そんな時にアエロポスタル時代の人脈でラテコエ-ル社のテストパイロットに採用されます。

しかし水上機の着水に失敗し機体を破損させ、契約を打ち切られてしまいます。

この時、サン=テグジュペリはすでに著作「南方郵便機」「夜間飛行」で有名になっていて、エールフランスはそんな彼を広告塔として広報・宣伝部門に採用する旨の通知を送り、彼は路線操縦士の道は諦めてエールフランスに入りますが、飛ぶことへの憧れが消えることはありませんでした。

1935年に賞金のかかったパリ~サイゴン間長距離飛行記録更新にシム-ン機で挑みます。

しかしリビア砂漠に不時着、5日間砂漠を彷徨い偶然に通りかかったキャラバン隊に救出されます。

この事故も「星の王子様」の物語誕生に大きく影響を与えました。

更に1938年、ニュ-ヨ-クから南米最南端のフェゴ島までの長距離飛行に挑戦しますが、グアテマラの空港で離陸に失敗して、重症を負ってしまいます。

この事故の後に「人間の大地」を書き上げ、アカデミ-大賞を受賞しました。

時代は大きく揺れ、第二次世界大戦の渦に吞み込まれていきます。

 

次回(3)に続きます