サン=テグジュペリは、結婚をして路線飛行士となり、マルセイユ~アルジェ間を飛びまわります、この時が一番幸せだったのではないでしょうか。

その時の飛行機がラテコエ-ル28でした。

 

 

 

サン=テグジュペリはキャップ・ジュビ-で一年半程、砂漠の中の静寂に包まれた世界で過ごした後、ブエノスアイレスの優雅で刺激的な世界に身を投じていきます。会社は更に南米路線網を拡大していて、その現地子会社の支配人となり1929年から1931年まで赴任し、この時に若き未亡人コンスエロと出会いフランスに帰国してから結婚します。

彼はこの頃から再び路線飛行士となりマルセイユ~アルジェ間水上飛行路線やカサブランカ~ダカ-ル間を飛び回ります。しかしアエロポスタルは財政危機となり破産し、アエロポスタル以外の航空5社が合併して1933年に誕生したエールフランスに合併されてしまいます。

因みにこの時代、欧州~南米路線はフランスとドイツが競い合っていて、ドイツは政府の後押しで航空会社が合併し、1926年にルフトハンザが誕生しています。

会社がエールフランスになってからサン=テグジュペリは採用を何度も申し入れますが派閥の策略でうまくいきません、そんな時にアエロポスタル時代の人脈でラテコエ-ル社のテストパイロットに採用されます。

しかし水上機の着水に失敗し機体を破損させ、契約を打ち切られてしまいます。

この時、サン=テグジュペリはすでに著作「南方郵便機」「夜間飛行」で有名になっていて、エールフランスはそんな彼を広告塔として広報・宣伝部門に採用する旨の通知を送り、彼は路線操縦士の道は諦めてエールフランスに入りますが、飛ぶことへの憧れが消えることはありませんでした。

1935年に賞金のかかったパリ~サイゴン間長距離飛行記録更新にシム-ン機で挑みます。

しかしリビア砂漠に不時着、5日間砂漠を彷徨い偶然に通りかかったキャラバン隊に救出されます。

この事故も「星の王子様」の物語誕生に大きく影響を与えました。

更に1938年、ニュ-ヨ-クから南米最南端のフェゴ島までの長距離飛行に挑戦しますが、グアテマラの空港で離陸に失敗して、重症を負ってしまいます。

この事故の後に「人間の大地」を書き上げ、アカデミ-大賞を受賞しました。

時代は大きく揺れ、第二次世界大戦の渦に吞み込まれていきます。

 

次回(3)に続きます