流転の記録、愛新覚羅浩さんの述懐を織り込み紹介します。

昭和十一年の春、二十三歳になった嵯峨侯爵家の長女、浩は清王朝の流れを汲む満州国皇帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)の弟である溥傑(ふけつ)と結婚します。これは日本が占領した満州国を統治するための政略結婚でしたが、溥傑氏の人柄に惹かれ次第にお互いに掛け替えのない仲睦まじい夫婦と成っていきました。長女の慧生(えいせい)、次女の嫮生(こせい)、二人のお子さんにも恵まれ暫らくは日本で暮らしていましたが、昭和十二年に学習院大学に通われていた慧生さんを残して三人は満州国の首都、新京に移り住みます。

この頃すでに、中国に進出した日本と中国との間で紛争が起きていて、二人は戦火の渦に巻き込まれていきます。

8月10日にはソ連から宣戦布告を受け、既にソ連軍が目前に迫っていて首都・新京を離れなければならなくなります。

降りしきる雨の深夜十二時、列車に乗って出発します。

「私たちが後にしようとしている満州国の首都は一瞬その終焉を告げるかのように電灯を消し深い闇に沈みました。列車は悲鳴のような汽笛を黒いとばりを下した新京の街に響かせ一路南を目指してひた走るのでした」

朝鮮との国境近くの山間の村、大栗子(ダーリ-ズ)で過ごし八月十五日の終戦を迎えます。

満州国皇帝溥儀の退位式が行われ、日本への亡命を決意します。溥儀と溥傑は家族に先立ち再会を誓って、日本に向かいますが、その行動がソ連軍の知るところとなり捕らえられ抑留されてしまいます。

残された一行はそのまま過ごしていましたが、暴民たちの掠奪や強盗、ソ連兵の暴挙などからの逃避行が始まります。

やがて共産軍が進軍してきて、これ以降共産軍の管理下におかれますが更なる流転が続きます。

通化(トンホウ)へ向かうことと成り、真冬の険しい山道をフルスピ-ドで走るトラックに揺られます。途中通過する道では、谷底に転落したトラックが横転しその周りに黑い死体が散乱している情景を目にします。

「寒さは並大抵のものではありません。私は歯の根が合わず震えるばかりで嫮生の身体をきつく抱きしめながら、一時も早く通化への旅がおわってくれることばかり考えていました。」

三日目の夕方、通化の町に着くと共産軍の公安局の一室に閉じ込められそこで拘留されてしまいます。

少しの間何事もなく過ごしていましたが、関東軍の残存部隊が、通化奪回を企て公安局を襲撃してきます。眠りについた真夜中、突然男が飛び込んできて部屋の中が戦場になります。「窓からは銃弾がひっきりなしに飛び込んでくるので、顔を上げることさえ出来ないのです。そのうち砲弾が落下しました。耳をつんざくような爆発音とともに爆風が襲い、空中に体が投げ出されるような衝撃につつまれます。機関銃の一斉射撃はいつ果てるともなく続き・・・手りゅう弾の炸裂音が轟いてきました。神さま、仏さま私は恐ろしさに息も絶え絶えになりながら、嫮生を抱きしめていました」

この時、皇帝の老乳母が砲弾の破片で右手首を吹き飛ばされ「痛い痛い」と喘ぎながら亡くなっていきました。

「私たちは壁に穴が開き砲弾の破片が散乱した公安局の部屋で、零下三十度の寒気に震えつつ、一週間も暮さなければなりませんでした。川岸の方からは二日間にわたって、銃声が聞こえてきました。その銃声がきこえてくるたびに、心臓が締め付けられるような思いで、耳をふさぎました。」

この後,何度も移動し留置場や囚人房に閉じ込められ厳しい訊問が長期にわたり執拗に続けられます。

国民党軍に追われ延吉への移動は過酷なものでした「私たちは歩くというより走らされました。私と嫮生はどうしても遅れがちになるので、見かねた八路兵は嫮生の両腕を自分の腕にひっかけ、ちゅうぶらりんのまま、どんどん走って行ってしまうのでした。・・・・ようやく吉林駅に着いたとき、私は何百里も歩き続けたような気がしました三等車の座席を取り払った軍隊輸送車に乗り込み、嫮生の身体をしっかり抱いた瞬間、私は嗚咽がこみあげてくるのを抑えることができませんでした。」

更に、日本への引き上げを目指す一行として錦州へ移動する時には

「逃避行も有蓋貨車から豚や牛を運ぶ貨車、そして今度は石炭や砂利を運ぶ無蓋貨車と、時を経るにしたがい惨めになっていきます。次は原木を運ぶ裸の貨車かしら・・・・私はひとりでそんなことを考え、おかしくなりました・・・

途中、鉄道のレールは破壊されていて遠い距離を歩かなければなりません。馬小屋に泊まったりして死ぬような思いで二日間歩き続け、ようやく両軍の対峙する無人地帯を通り抜けてほっとしたのも束の間、今度は国民党軍がやってきて、女をよこせと要求しました。」

そのあとも紆余曲折があり、流転の末にたどり着いた上海の地で引き揚げ船に乗ることに成ります。

「最後の引き揚げ船ということで人と荷物で身動きがとれない程の船室で嫮生を抱いたまま、やっと訪れた平和の味をかみしめていました。思えば一年と四か月あまり前、夫と大栗子で別れて以来、私は嫮生の手を引き、中国大陸のなかを追われるようにあちこち流転を続けてきました。この間、銃火に命をさらし、飢えと寒さに苦しみ冷たい監獄の壁のなかでうちひしがれました。・・・私には慧生(えいせい)と嫮生(こせい)という二人の娘がいます。その二人には中国と日本の血が流れています。・・・・自分の娘たちを中国と日本の懸け橋にしようと思いました。中国大陸で散った両国の人たちの霊をとむらうためにも、私はこの意志を娘たちに伝えていきたいと思いました。」

親子三人で戦後の混乱の中、慎ましく過ごす日々が続きます。

そうしたある日、長い間消息の分からなかった夫、溥傑氏からの突然便りが届きます。

それは娘の慧生から、時の総理・周恩来宛てに差し出された一通の手紙から始まったものでした。

「拙いながら、日本で習った中国語で手紙を書いております。父溥傑の消息は、長らく途絶えたままで、母も私たち娘も大変心配しております。・・・たとえ思想がちがおうと、親子の情に変わりはないと存じます。周恩来総理に、もしお子さまがおありになるなら、私どもが父を慕う気持ちもおわかりにいただけるのではないでしょうか。・・・・・・・・

どうか、お願いいたします。この手紙と写真を父にお届けください。」

家族が夫の待つ中国に帰ることになったのは、昭和三十六年、十六年ぶりのの再会でした。

しかしそこには娘の慧生さんは居ません、志半ばで不慮の死を遂げられたのでした。

夫妻は浩さんが亡くなるまでの17年間を仲睦まじく過ごされ、今は下関の中山神社に慧生さんと、三人一緒に眠っています。      

嫮生さんは日本に戻り結婚され子供にも恵まれました。

清朝直系の血は絶えることなく、受け継がれています。

画は常盤貴子さんが演じた流転の王妃・愛新覚羅浩です。

 

参考資料  新潮文庫「流転の王妃の昭和史」

              愛新覚羅浩 著