サン=テグジュペリが最後に操縦したのが、ロッキ-ドP38F-5B偵察機でした

 

 

1939年9月ドイツ軍がポーランドに侵攻し、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告します。

サン=テグジュペリは予備空軍大尉として招集されトゥールーズの基地に教官として配属されます。年齢は40歳、事故の後遺症もあり当然の措置でしたが、彼は進言をして偵察任務の操縦士として転属することになります。

1940年5月,ドイツ軍は怒涛の進撃を開始し、連合軍はダンケルクでの撤退に追い詰められ、彼の大隊では3週間のうちに23クル-(69名)いた隊員中、8割以上の17クル-(51人)が亡くなっています。

この時のサン=テグジュペリは7回の出撃を行っていて、危険な任務を遂行したことにより感謝状を授与されています。

この後、飛行大隊は後退を余儀なくされ、北アフリカのアルジェに移動しますが、フランスの敗退により動員解除となります。

彼はフランスに一時帰国しますが、アメリカで著書「風と砂と星と」がベストセラ-となり出版社の依頼を受け渡米、その後も「戦う操縦士」を書き上げ更にその名声を高めていきます。

1942年11月、戦況に変化が訪れ、連合軍は北アフリカに上陸します。そして彼は原隊に復帰する決意をし、1943年4月にアメリカ軍の護送船団に便乗してアルジェに渡ります。

以前所属していた飛行大隊はアメリカ軍の指揮下に置かれていて、搭乗者の年齢制限を30歳としていましたが、ここでも粘り強い嘆願をして43歳の年齢で搭乗を許されます。

用意されていた機体は新鋭のP38F-5Bライトニング戦闘機偵察型です。

事故の後遺症も癒えておらず、年齢的にも新しい操縦技術を身に着けて行くには難しく、慣熟するまでには相当な苦労が伴い、加えてアメリカ様式の生活が彼に苦痛を与えました。

3人同居の部屋、アルミニュ-ムの食器、立ったままの食事、共感できない音楽の趣味、スポ-ツやゲームのことしか話題に上らない若者たちとの時間、等々。

それらを経験しながらも1943年7月21日、第一回目の出撃で妹や母親の住む懐かしいローヌ河渓谷とプロバンス上空を飛行しました。

しかし7月31日、2回目の出撃で着地に失敗し機体の一部を損傷し、パイロットのメンバ-から外されてしまいます。

彼は失意の内にアルジェに戻り悶々と時を過ごしますが、程無くして、そんな彼を友人たちが救ってくれます。

地中海方面連合軍最高司令官から5回という制限付きの飛行許可を取り付けてくれました。

1944年5月に再訓練開始となり、訓練後フランス本土に近いコルシカ島の基地に配属されます。

そのころ連合軍は1944年6月6日、ドーバ-海峡を渡り北フランス・ノルマンディーに上陸、いよいよドイツ軍への反撃が開始されます。

更に南フランスへの上陸作戦が計画され、地域の情報収集として、航空写真撮影のための偵察飛行が行われることとなります。

サン=テグジュペリは約束された5回の出撃を瞬く間に消化、7月31日、制限を無視して7回目の出撃。

偵察飛行に飛び立ちますが、これが彼の最後の飛行となってしまいました。

この地域は彼が子供時代を過ごしたサン=モーリス・ド・レマンが含まれていました。

 

次回(4)に続きます