AppleTaeあっぷるたえ(о´∀`о) 橿原市
わかりますよ!
心地いいんですよね??
は?何言ってんの?!
と、思う方は引き続き
愛の奴隷に生きてください。
「アタシが居ないとこの人はだめになるからっ!」
そんな自慰が気持ちよくて
なんなら存在価値にまでなっちゃって
自分の人生ではなくて
相手の人生を生きていることにも気付かない。
「ここまで共にやって来たんだから」
って、小さな箱庭を守る
外に出るのが怖いのはパートナーも同じこと
この世に存在しない永遠を信じて
そこに共に留まり繰り返す日々
もしも実際にそのパートナーが居なくなったら
何が一番の恐怖になるでしょう?
色んな底が想像できます。
小さい頃からの虐待経験からわかることは
私を痛めつける人に全く愛が無ければ
本当の奴隷です。
しかし、そこに何かしらの関係性や
少しでも愛があることで
戸惑いながらも傷付けてくる相手に
いい時もあるから見限れないと言う葛藤
変に心に残ってしまったりするのも厄介。
私は厄年や大殺界が来るのが楽しみな
ちょいと変態さんタイプです。
そうでもしないと
色んなものをぶっ壊せないチキンでもあります。
自力で違う道を選べないチキンです。
にっちもさっちもの底に行ってこそ
浮上するためのキックができるなら
どうか運命でボロボロにしてくれ🙏😏
他力本願とも言えるのでかっこ良くはない笑
DVやモラハラの王道は
ぬるく痛めつけられて
ぬるく掬い上げてられて
濁った水の中でふわふわと絡み合う…
なんかあの不健全な閉塞的な愛が
エロ情緒シネマみたくていいんですけども🤭
でもね、この世はもっと広くて自由ですよ🤫
自分の意思をしっかりと持ってこそ
いつでも澄んだ水の中を生きられます
相手なんかは変える必要も
理解してもらう必要もなく
ただ自分の在り方を決めるだけで
環境は必ず変わるのは当たり前のこと^ - ^
2026年は、大変革の年
自分を大切に生きるのですぞ!
モラハラしちゃってる方のあなたもですぞ!!
てか、ほんまに
モラハラ設定すらただの思い込みなのでな🤚
早朝、駅からの帰り道。
久しぶりにドリカムの
“うれしはずかし朝帰り”を聴いた。
過去の出来事を思い出したというより、
あの頃の“気持ちの軽さ”が
身体に戻ってきた感じがしてね^ - ^
“朝帰り”って少しイケナイことのはずやのに、
それよりも
一緒に過ごした時間の余韻の方が甘くて
思い出してニヤけてしまうあの感じ。
音楽は記憶より先に感情を連れてくる。
それって、絵やタロットも同じで
見えないはずの気持ちを
形にできるから
人の中に残るんやと思う。
私は触れる仕事をしてるけど
目指しているのは
「上手な施術」よりも
触れられたあとに身体の奥に何かが残ること。
お客様からはよく
「手が魔法みたい」
「おばあちゃんの手ってこんなんやった」
「安心する」って言われる。
たぶん私がやっているのは
何かを良くしてあげることじゃなくて、
よく聞く言い回しかもやけど
その人が心の鎧を脱いでいられる場所。
人の悩みは
ほとんどが人間関係とか立場とか評価とか
“相手がいる世界”の中で生まれるもの。
そこから少し離れて
誰にも何も求められない状態になるって
とても静かで居心地がいいと思う^ - ^
子供の頃みたいに、
まだ何者でもなくて
背負うものも少なかった頃の軽さに近い感覚。
私は何かを教えたいわけでも
無理に前向きにしたいわけでもなくて、
ただ、
安心できる状態の中で
その人が本来持ってる感覚が戻ってくるのを
静かに見守っていたいと思ってる。
触れられたあとは
景色の見え方が少しだけ変わる。
そんな時間を作っています^ - ^
ルーティンが苦手。
ルーティンと言うよりは
同じことが続くと息が詰まる。
変化がないとダメで、
繰り返すだけの仕事はきっと向いていない。
ひとりの時間が私にとっては必要不可欠な聖域で
旦那さんが絶対に帰ってこない夜は
毎週楽しみだったりする。
誰にも気を遣わず
誰の様子も読まず
最高のしあわせ。ほんとうに楽しい。
他人に何かを渡す時
自分が満たされて
自然に溢れるようなら
人に渡してもいいと思っている。
いちいちちゃんと確認しないと
うっかり自分を削ってしまう癖が
私は長年あった。
平気で顔をちぎって渡している
みたいなことを
反射的にやってしまう。
去年からは意識して
これは自己犠牲になってないかな?
って、立ち止まって確認している。
私のベースに必要なのは、
自己犠牲にならないくらいの自己受容。
自己受容って
本来はフラットなもののはずなのに、
私はそれにすら頑張ってしまう。
ほんとにこれでいいのか?
逃げてないか?
って、余計な確認をしてしまう。
それらも癖。
理解が早いせいか、過敏すぎるからか
場面に隠されてる触れなくてもいいものに触れて
早とちりも多い。
完全に私の想像の中の話やけど、
私の細かさは時に相手に
気を使わせてしまうことになってしまって
「あれ?なんだか噛み合わない??」って
距離を感じさせてしまうのかもしれない。
距離を感じて、
寂しくなって、
さらに距離ができる。
そんなループを
私はわりとよく知っている。
…演じてる私との距離感?
でも、
自己受容の時点でわたしが
ほんとのほんとうに『素』になったときに
実はものすごく冷たい人だったとしたら??
…それを考えると
怖くて最後まで受容しきれなくなる。
自分にがっかりすることを
わざわざするなんて
せっかく治りかけた傷をまた
引きちぎるような馬鹿なことだと思う。
いや、これまではそう思ってきたのだけど
一回それを知ってしまうのも
悪くはないとこの頃は以前よりも思っている。
ほんとの私はどこまで冷酷なんだろか。。。
友だちと話していて、
「子どもが可愛すぎて」
「犬が可愛すぎて」
なんて言うフレーズを友達の口から聞くと、
私の中には
同じものが一欠片もない気がして
少し不安になるけど
なけりゃないで仕方ねぇな。
ともどこかではしっかりと思っている。
気配りは実は
どこまでもできてしまう。
自己犠牲なんて俄然得意!
周りに気を遣わせないために
敢えて気を使えないフリだって
へっちゃらでできる。
そこまで思ってるのに
その一方で、
「本気で演じることを完全にやめたら
自分が世界一冷徹になれる」気もしていて、
怖くて手を緩められない。
傍若無尽な人たちをたくさん見てきたから。
あぁいう風にはなりたくないという恐怖もある。
馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったもの。
その場の空気を
なんらかの数値にして過敏に読み取る自分が居る。
だからもうほんとに
自分はこういう人間(である方がいいだろう)
と頭で決めるところから入らない。
頭で道を決めない。頭で自分を作らない。
ああかな、
こうかな、
って思うことを、
ひとつずつ実証していく段階が必要。
賢かろうが馬鹿だろうがもどっちでもいい。
外の声じゃなくて、
自分の中の声から。
正直、怖い。
でも、それでいい気もしている。
人生なんて自分のものなのだから
自分がしあわせなら後は
他の人の課題でいいんだって!!
お節介しないっ!!
私の好きか嫌いかは昔から
正しいか間違いかではなくて
私が好きか嫌いかだった気もする。

